1: 2011/12/09(金) 00:09:45.62
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないってなったの?
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。

引用元: ・征夷大将軍っていつから源氏だけになったの?

3: 2011/12/18(日) 19:52:01.43
清和源氏以外に平氏や藤原氏、そして皇族も就任しており、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。
また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。
織田信長が征夷大将軍にならなかったことについては、三職推任問題のように議論が続けられており定説がある訳ではないが、
少なくとも俗説のように「織田家が平氏の系図を称していたため征夷大将軍にはなれなかった」のではないことは明白である。
豊臣秀吉についての俗説では、征夷大将軍となるために源氏である足利義昭の養子になることを執拗に計ったが失敗したため、
近衛家の養子となって関白に任ぜられたとされる。
しかし実際には、秀吉が自ら征夷大将軍就任を断っている事実がある。
また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。
徳川家康についての俗説では、征夷大将軍に任命されるに当たって、系図を偽造して清和源氏と称したとされる。
しかしながら実際の家康の目的は、当時称していた藤原氏を捨てることで豊臣政権からの独立を明確にするため(上述の通り、豊臣秀吉は関白就任にあたって一時藤原氏を称している)である。
その際に家康が源氏を称したのは、かつて織田家が平氏を称していたためそれを避けたからである。
以上が当を得た解釈であり、征夷大将軍就任に巷間で説かれるような制約が存在したとは考えにくく、
源氏でなければ征夷大将軍になれないという俗説は事実に反し誤りであり、源平交代思想も然りである。

18: 2011/12/23(金) 12:57:00.73
>>3
多聞院英俊の日記は、同時代史料なんだが、いまいち評価されてないな。
秀吉が正親町帝からの将軍任官提示を断ったと書いているんだがな。

4: 2011/12/18(日) 22:58:11.31
豊臣とぼす為に作られた神話ってことは

5: 2011/12/18(日) 23:24:13.98
もし北条氏が平氏でなく源氏の支流だったとしても執権のまま?

6: 2011/12/18(日) 23:39:14.17
家康の場合、祖父の清康の時から新田流源氏(世良田)を称しているという
いきさつも大きいんじゃないかな。世良田と得川は同族だし。

10: 2011/12/19(月) 15:11:26.84
>>6
家康の親父の代には藤原姓だったんじゃなかったっけ。
家康も初期には藤原姓を名乗ってるんだよな。

12: 2011/12/20(火) 00:23:13.96
>>10
家康の「藤原」は、近衛前久に三河守任官の取り次ぎを頼んだ都合からでしょう?
そもそもが、「得川の惣領が二筋に分かれていて、片方が藤姓になって云々」という
無理やりな理屈で「藤原家康」になったということだし。

7: 2011/12/19(月) 05:46:34.27
頼朝は伊豆~鎌倉拠点、尊氏は鎌倉の御家人、家康は関東の太守だったけど、
東国を制してない秀吉が征夷大将軍はないだろ。
信長もそうか。
秀吉は中央を押さえたからすばやく関白になっておくほうがよかった。

家康が将軍になることはかまわないが、源氏を私称するのはなぁ。


8: 2011/12/19(月) 09:15:15.41
江戸時代に宮将軍擁立計画があったと聞いたが。

9: 2011/12/19(月) 10:50:32.86
>>8
家綱が死んだときにね。
将軍はもはや天皇同様の名誉職で
有力譜代大名が執権や管領のようになって政治を代行することが模索されたが
結局実現しなかった。

11: 2011/12/19(月) 16:56:50.68
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)

・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護

・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→義兼→義氏→のちに足利尊氏
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)

・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→義清→義実→細川義李(初代細川氏)
・”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆関ヶ原の戦い◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)

◆大坂の役◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

13: 2011/12/20(火) 01:23:30.26
家康の氏素性については三河物語の通りでいいだろ

14: 2011/12/21(水) 20:05:30.42
いつから源氏だけなんて説がはやりだしたんだ?

15: 2011/12/21(水) 22:20:24.68
律令的には根拠がないけど、足利義満が征夷大将軍と共に
源氏長者も補任されたことが、慣例化したからでは?
そもそも、摂政も元々は皇族しかなれなかったのが
いつの間にか藤氏しかなれないと言う慣例ができたわけだし。
徳川家康が足利義満と同じように源氏長者になったことから
征夷大将軍=源氏の慣例を確定化させたわけじゃないかな?
ただ、あくまでも「慣例」なので、例外もありえるわけで
それが豊臣家の関白世襲化や江戸幕府の宮将軍擁立あるわけで。

16: 2011/12/22(木) 08:44:36.81
>>15
1597年に足利義昭が没し、征夷大将軍と源氏氏長者就任に文句を言う人がいなくなったため、
その隙間に家康が入り込んだだけの気がするなあ。
義昭が生きていればその養子になるとか面倒な手続きが必要だった気もするが。
秀吉は近衛家の養子になるなど関白就任に当たって面倒な手続きを取ったが、
家康は誰の養子になることもなく偽の系図を源氏にくっつけるだけで済んだ。

摂政に関しては藤原氏以前に就任した例が一つしかなく(伝説の聖徳太子)、
律令に何の規定もないので、関白同様、ほぼ平安時代に藤原氏が始めた役職に近い気が。
摂政が法的根拠を持つにいたったのは明治時代の皇室典範が初めてで、
このときに初めて皇族限定(皇后や皇太子など)の役職になった。
その後、昭和天皇が皇太子時代に就任した例がある。

17: 2011/12/23(金) 01:03:51.86
>>15-16
ちょっと待てよ。
岡野公彦によれば、足利義満以降も
久我家が源氏長者になってるだろ。足利義昭は
源氏長者にはなっていない。

19: 2011/12/24(土) 10:04:08.33
秀吉が近衛家の養子になったことからの派生なのかな。
正直、秀吉がどうしても征夷大将軍になりたいのならば足利義昭の養子にならなくても、
徳川家康みたいに出鱈目系図を用意して源氏を自称すれば済むこと。
近衛前久はこの頃明智光秀に協力したとの噂を立てられ隠居に追い込まれていたが、
娘の近衛前子を秀吉が養女として代わりに入内させてあげるなど、
状況打開のために前久のほうから言い出した可能性すらある。
前久唯一の男子には子がなく、近衛前子が産んだ後陽成天皇の皇子が近衛家を継いでいる。

20: 2011/12/24(土) 11:00:45.40
関白になった後に征夷大将軍になる必要てある?

義昭は、88年まで将軍だったし。


仮に征夷大将軍になっても、秀頼の運命は変わらんでしょ。

21: 2011/12/25(日) 00:07:48.63
鎮西大将軍ではダメなのか?
鎌倉、室町の前例にもとづいて征夷大将軍でないといかんのか

22: 2011/12/25(日) 00:20:12.32
征夷大将軍
摂政
関白
太政大臣

偉さ(格式)の序列は?

23: 2011/12/25(日) 11:25:34.19
摂政=関白>太政大臣>征夷大将軍

征夷大将軍自体はそれほど高い官職ではない。
家康は足利義満などの例にならって太政大臣を兼任することで
より高い地位につこうとした(征夷大将軍を辞した後も太政大臣だけを称している)。
江戸時代の将軍でも将軍就任と同時につくのは内大臣じゃなかったか。
すべての将軍が太政大臣を兼任していたわけではない。

24: 2011/12/25(日) 13:05:22.62
>>23
家康の太政大臣任官は死の直前だ。実質上、贈官と変わらない

25: 2011/12/25(日) 18:54:51.40
家康は死の一月前に太政大臣になってるね。
当然、将軍職を譲って大御所だった。
数年太政大臣であったのは秀忠だけ。
他の将軍は太政大臣にまでのぼってすらない。
朝廷に対し、もっとも威勢があったのは秀忠かもね。

26: 2011/12/25(日) 20:00:03.04
木曽義仲から

27: 2011/12/25(日) 21:23:37.84
ところが義仲は征夷大将軍ではなく征東大将軍だった

28: 2011/12/26(月) 07:51:33.95
田村麻呂から

29: 2011/12/26(月) 16:20:32.55
大伴弟麻呂から

30: 2011/12/26(月) 21:04:53.48
田村麻呂は清和源氏

33: 2011/12/27(火) 12:35:02.64
>>30
坂上田村麻呂は清和天皇よりもずっと以前の人。

31: 2011/12/26(月) 23:46:18.96
なんでやねん

32: 2011/12/27(火) 09:27:40.46
>>31
本来は坂上氏だが、征夷大将軍任官前に源氏に改姓してる。それが慣例だったんだな。

33: 2011/12/27(火) 12:35:02.64
>>32
坂上田村麻呂が源氏になったことは一度もない。

34: 2011/12/27(火) 14:09:13.26
最初に源姓を名乗ったのは嵯峨天皇の子供。
坂上田村麻呂が征夷大将軍のころ、嵯峨天皇はまだ10歳くらい。

35: 2011/12/27(火) 19:01:16.78
>>34
田村麻呂は嵯峨天皇の養子になって源姓を下賜されたんだ。だから、征夷大将軍になれたんだ。

36: 2011/12/27(火) 21:41:04.95
じゃあ大伴弟麻呂は?

40: 2011/12/28(水) 09:29:38.38
>>36
いなかったことにしよう

37: 2011/12/27(火) 22:26:36.34
征夷大将軍自体には、摂関同様官職としての格があるわけじゃないんで、
単にその時々の力関係で上下が変わる。
室町時代の摂関は、将軍に伺候し裾を取ったり、将軍の機嫌次第で解官、
追放されたりという立場にあったから、公家社会も含め
将軍>摂関
という序列だね。

42: 2011/12/28(水) 21:36:04.61
>>37
将軍自体の序列は摂関>将軍だよ。
将軍だけじゃ序列が低いので左大臣や右大臣などを兼務して
公家との序列のつりあいを合わせているんじゃないか?

45: 2011/12/28(水) 23:19:14.05
>>42
そもそもどちらにも序列を規定する根拠が存在していないんだよ。
で、宰相の将軍でも、平気で大臣や摂関を伺候させたり首を飛ばし
ていたのが、室町以降。

46: 2011/12/28(水) 23:58:14.43
>>45
それはみんなわかっているだろうよ。
事実上の権力者ではなく、制度上の序列の話をしているんだろう。
現在のイギリスに似ているかもな。
イギリスでは君主の国王は別にして、現在でも組織としては内閣より
枢密院の方が上位だし、序列も核ボタンを持っている首相は大法官や
カンタベリー大主教よりも下位。

38: 2011/12/27(火) 22:43:44.98
征夷大将軍はそもそも令外の官、いわば称号みたいなもの。

39: 2011/12/28(水) 01:25:33.02
あ、それとどこかで話題になっていたが、
息長はソナ(ヌ)カが元の音、イキナガとは学者と称する方が勝手に言っているだけ。

41: 2011/12/28(水) 09:37:01.72
歴代征夷大将軍
大伴弟麻呂→坂上田村麻呂→文屋綿麻呂

そもそも源氏が征夷大将軍になったのって、源頼朝が初めてなんだよな。

43: 2011/12/28(水) 21:45:44.24
源氏長者と源氏の征夷代将軍って全く別の物なんだが・・・
源でも足利でも源氏長者に付かない征夷大将軍っていっぱいいる

44: 2011/12/28(水) 23:13:01.59
武家の棟梁が征夷代将軍
公家の棟梁が源氏長者
信長は天皇を越えようとしたが
家康は天皇の下のトップを目指したんじゃないか?

47: 2011/12/30(金) 11:12:12.51
信長が天皇を超えるためには、海外進出が必要では?
海外領土も含めた大日本帝国のようなものを新たに建国し皇帝を名乗る。
天皇は山城の国の大神主のような存在に。

49: 2011/12/31(土) 17:49:27.80
>>47
それ、普通に秀吉の政権構想じゃん

48: 2011/12/30(金) 11:36:30.72
国内の統一さえできない奴に、
どうやって海外進出ができるのか。

50: 2011/12/31(土) 19:19:27.43
いや、秀吉は唐入りのあと天皇を北京に遷すつもりじゃなかったかな

51: 2012/01/01(日) 01:18:49.99
家康が藤原から源に変えたから、将軍は源氏ってイメージになったのでは?
でも、家康は将軍より源氏長者を見据えて源氏に名乗りを変えた気がする。

52: 2012/01/01(日) 02:36:23.17
新田氏の系図を盗んで家系を捏造した件か?

53: 2012/01/01(日) 22:41:49.47
山名豊国を交代寄合に取り立てたのも、新田源氏だったから?

58: 2012/01/03(火) 10:54:35.60
>>53
初代山名氏 山名義範は、実は三河生まれだからです


矢田義清(山名義範の実父)
・愛知県西尾市上矢田に本拠を構え、矢田義清と号する
・矢田郷が皇嘉門院領だった縁で、新田義重の娘を室にする
・水島の戦いで戦死、義範は祖父新田義重の養子となり初代山名氏に

蛇足だが、兄弟の義実は、豊田の広沢に移り住んで広沢義実に、義実の息子義季は岡崎の細川に移り住んで初代細川氏に

54: 2012/01/02(月) 03:07:48.38
源氏であればいいってもんではないな。
清和源氏正嫡といえば頼光の系統になるんだろうが、
将軍はやはり鎮守府将軍だった頼信~八幡太郎~頼朝の武門の系譜。
実際、武家政治の仕組みを頼朝が確立したこともあるが。

百歩譲って、義為よりわかれた新田、足利。
結局は足利と新田得川(実際は偽の徳川)が将軍となっている。
佐竹、武田あたりだと弱い。

55: 2012/01/02(月) 08:18:25.02
大塔宮護良親王って征夷大将軍にならなかったっけ?

57: 2012/01/03(火) 10:28:17.08
コレは簡単、信長と秀吉はイエズス会の手下及び協力者だったから。
南蛮人と連帯してた人間が征夷は無い。
一方の家康は明らかに反イルミナティであり征夷大将軍が相応しい。

67: 2012/01/13(金) 10:25:59.43
>>57
信長は兎も角秀吉がイエズス会の手下なら
「サン・フェリペ号事件」は起きないと思うのだがw

59: 2012/01/04(水) 00:24:36.58
幕末の源氏長者って誰なの?


61: 2012/01/04(水) 07:26:44.90
>>59
江戸幕府歴代将軍は第2代徳川秀忠一人を除いて全員
源氏長者に任命されている。
徳川慶喜の辞官納地まで、慶喜が源氏長者だったはず。
よって、幕末の源氏長者は徳川慶喜ということになる。
ちなみに慶喜が官職を辞した直後、一時期、
源氏で最上位となった久我建通が源氏長者だったともいうが
史料には書かれておらず不明らしい。

60: 2012/01/04(水) 00:34:39.64
幕末の源氏の直系って誰なの?

62: 2012/01/06(金) 16:00:45.70
源氏長者を任命するのは朝廷?

63: 2012/01/06(金) 19:13:09.41
>>62
そう。宣旨による。

64: 2012/01/06(金) 22:04:20.81
>>63
喜連川は源氏長者じゃないの?

65: 2012/01/10(火) 23:56:03.61
秀吉が将軍にならなかったのは
単に公家政権を作りたかったからでは?
頼朝以来の軍事政権幕府を自分の代で廃止して
それ以前の清盛のような存在になりたかったんじゃ

66: 2012/01/11(水) 18:41:46.43
時代の端境期には、一時的に朝廷を中心とした政体が現れる。

院政→清盛政権→鎌倉→建武新政→室町→秀吉関白政権→江戸→明治太政官政

68: 2012/01/18(水) 17:07:05.67
いや源平藤橘の系譜なら将軍様になれるはず

69: 2012/01/18(水) 17:24:29.54
>>68
坂上田村麻呂や文屋綿麻呂が征夷大将軍になってるんだから
関係ないだろ

70: 2012/01/18(水) 18:34:27.46
源氏だけになったのは足利からだろ?

71: 2012/01/18(水) 19:24:15.88
>>70
平氏を名乗っていた織田信長に対して三職推任、
すなわち征夷大将軍にならないかと朝廷が持ちかけているから
足利以降も問題なかった

72: 2012/01/22(日) 19:31:15.83
家康が三河守への任官を望んだ時、先例から氏を源から藤原に変えたと何かで読んだ
だから、任官するには同じ氏の者や先祖が任官した先例は必要だったのではないでしょうか?



73: 2012/01/22(日) 23:04:19.69
東京人ですが、今日は、大津市(膳所・石山)を周ってきました。
今井兼平の墓、義仲寺(木曽義仲や松尾芭蕉の墓所)、和田神社(石治少を繋いだ伝えのある大銀杏)などです。
楽しかったです。iPadできれいな写真も撮れました。

74: 2012/01/24(火) 08:34:53.55
いや、そうじゃないんだよな。


そもいわゆる源氏史観、平氏史観ってのも実在の歴史と違う。

むしろ多分足利あたりが作り始めた歪曲史観
そして 歴史上常に無教養で水準低かった西日本の連中 (3けつともいうなw)
が権威づけてうそついただけで、

そもそも歴史学上10~15世紀あたりの資料上の歴史もかなり懇意的なうそが相当入ってるし、
そもそも事実関係資料ではない。空想資料などを基にしてるから、相当なうそがある。

そもそも歴史でも歴史学でもない。ぶっちゃけ10~15世紀は相当懇意的なうそ(今ではわかってるが)
が織り交ぜられたが、実は古代史並み、ないし以上に歴史にうそがある。

かつその都合で、
〝無分度〟〝無教養〟〝田舎もの〟の西日本の酸欠が権威づけのためにうそついちゃったのが大きい。

75: 2012/01/24(火) 19:15:57.30
ここでもキチガイが暴れてるw

76: 2012/02/23(木) 15:38:41.64
征夷大将軍職そのものが本来大した役職じゃないのに、
なぜ天下人の代名詞のようになったのか、
教えてごじゃれ

78: 2012/03/14(水) 23:54:44.42
>>76
電話もメールもないような時代に長距離遠征を行えば
遠征軍の最高司令官がいちいち朝廷のお伺いを立てながら戦うことは物理的に不可能である
だから遠征軍の最高司令官たる征夷大将軍は出陣すれば朝廷に相談せず自分の意思だけで行動できる特権が与えられる
そこで征夷大将軍になって今出陣中ですということにすれば何でも思いのままの事実上の独立政権が作れるから天下人の代名詞となった
よく比較される関白や太政大臣にはこのような特権は存在しない

79: 2012/03/15(木) 09:17:04.35
>>76
頼朝が征夷大将軍という名前の響きに漬かれたからとしか言いようがない
ただの将軍だけより、ずっとサマになるからな
別に征夷大将軍にならなくても既に政権の体をなしていたし

77: 2012/03/12(月) 17:56:18.56
戦時下の非常事態の時に
軍の最高司令官として
天皇の考えを逐一聞かなくても良いという職権を
過大解釈したから

80: 2012/03/15(木) 12:14:15.44
違うよ
義仲が征東大将軍になったからだよ
征東ってのは頼朝も含めた東を征伐する事だからな

81: 2012/03/15(木) 14:44:01.69
宗良親王は征夷大将軍じゃなくて征東将軍

82: 2012/03/16(金) 09:25:52.76
家康って、上杉謙信みたいに
さっさと吉良の養子にでもなっておけば、後世
「偽源氏乙www」って煽られずに済んだのにな・・・・

家康の残した業績は多大で、正直、信長や秀吉よりもずっと偉大な人物だが
この点だけは、残念に思う。

83: 2012/03/16(金) 14:39:09.14
>>82家康の悪いイメージは維新政府によってつくらたものだから何やっても悪く言われたと思う

84: 2012/03/16(金) 17:47:43.60
信康なら母は源氏だな。
信康が跡継ぎになればまだマシだった。

85: 2012/03/17(土) 02:49:03.04
桓武天皇(平氏)→清和天皇(源氏)→
平将門(平氏)→源頼義・義家(源氏)→
平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→

91: 2012/03/17(土) 09:33:35.71
>>85
国津神族→天津神族→
出雲→百済・温羅→
邪馬台国→出雲→
大伴氏→新羅→
大和朝廷・吉備真備(吉備氏)→藤原仲麿=恵美押勝(藤原氏)→
嵯峨天皇(源氏)→中臣氏(藤原氏)→
桓武天皇(平氏)→清和天皇(源氏)→
平将門(平氏)→源護(源氏)→
孝元天皇(安倍氏)→源頼義・義家(源氏)→
平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→

95: 2012/03/17(土) 22:02:41.86
>>91は電波ゆんゆん

100: 2012/03/18(日) 08:27:22.54
実際のところ>>91が何をいいたいのかサッパリわからんな

86: 2012/03/17(土) 03:03:23.13
松平信光の嫁は一色詮範の娘
松平氏は貴種だと何回ゆーたらわかるんや



87: 2012/03/17(土) 03:45:24.37
養子縁組でもない限り、母系で貴種でも貴種とは見なされない。

88: 2012/03/17(土) 03:59:41.66
家康が血統マニアなのは、貴種をサンプル的に収集してることから証明済み。

その上、謙信という著名な実例が同時代にあったわけだから、
同様に源氏の血統を「正統に」乗っ取って、正真正銘の源氏として血筋を残したい、
という考えも、もちろんあっただろう。
(源氏を詐称することで後世を騙せるとは、さすがに全く考えていなかったに違いない。
後世どころか、同時代人でさえ、徳川家が実は源氏などでないことはみんな知っていたはずだから)
吉良、今川はもちろん、足利、斯波の名をもつ家も断絶すれすれで沢山残っていたから、
やろうとさえ思えば簡単な話だったのは確実。

では、なぜそれをしなかったか。
恐らく家康の場合、自分の父祖への恩義、というのがあったのではないかと思う。
例えば吉良に養子に入って吉良家康になった場合には、松平家自体はただの土豪にすぎず、
自分の父や、尊敬していたであろう祖父は、田舎の、どこの馬の骨ともわからぬ小領主に過ぎないわけだからね。
父祖までをも格上げするためには、自分が養子に行ってしまってはダメで、
松平家自体を無理やり格上げする他になかったのだろう。

89: 2012/03/17(土) 04:46:05.82
一色詮範
足助重範
楠木正成


家康は信長(過大評価の田舎猿)と比べたら貴種ですなw

松平信光つーのは凄いな、同時期の三河権力者と言ったら足利義満、細川頼之、斯波義将なんだからw


90: 2012/03/17(土) 06:10:31.10
家康の先祖は、世良田の願人坊主あたり、ってのは

本当だろうか。

92: 2012/03/17(土) 09:37:46.45
>>90
世良田×
頼光流嫡流筋の大河内○

93: 2012/03/17(土) 11:15:54.69
源氏がカリスマ性を有したのは事実。ただ、源氏将軍に絶対性はない。
源氏が絶対というのなら義仲が征夷大将軍を欲したとき、前例がないと一蹴されなかったし、
時代が下って藤原氏や宮将軍が誕生したり、信長に三職推任の話もでなかった。

足利が源氏将軍神話を作り出した説は一票投ずる。
ただどこまで作為的なのかは不明。やはり、摂家将軍の時代でさえ、頼朝連枝の
阿野氏や吉見氏は滅亡の憂き目を見ているし、甲斐源氏ながら門葉の平賀朝雅は殺害されているし。
前例主義がものをいう日本で、一度、源氏から将軍を出したという前例はやはり重いんだろう。

太平記の時代、白河結城の結城親光あたりが武門の棟梁=源氏という風潮に反発しているという事績を、歴史物シリーズでよんだ事ある。

94: 2012/03/17(土) 13:02:49.98
スレタイ読もうな

96: 2012/03/17(土) 22:17:04.68
×一色詮範
○一色満範

97: 2012/03/17(土) 22:36:07.99
桓武天皇(平氏)ってなんだ?

99: 2012/03/18(日) 01:15:20.08
>>97平氏も源氏も天皇の臣下、桓武天皇から始まる。

98: 2012/03/18(日) 01:12:30.70
桓武平氏のルーツだろアホ

102: 2012/03/18(日) 23:09:17.15
>>98
桓武天皇自身は源氏でも平氏でもないだろってことだよ
嵯峨天皇(源氏)とか清和天皇(源氏)も

103: 2012/03/18(日) 23:18:50.49
>>102
あっそれねW
最初の源氏の源融を基準にして、将門の乱の際の平氏が融死後だから
融=光源氏・・後に、平氏が桓武平氏名乗ったのかと思ってねW
違うのん?
融の源姓名乗りよりも、桓武平氏名乗りの方が早かったのけっ?

122: 2012/03/27(火) 14:03:47.85
>>103
桓武平氏=825年、桓武天皇の孫王たちが平氏を受けて臣籍降下したのに始まる
嵯峨源氏=814年、嵯峨天皇の皇子たちが源氏を受けて臣籍降下したのに始まる

微妙に桓武平氏より嵯峨源氏のほうが桓武平氏よりも成立が早い

ちなみに天皇の子孫で臣籍降下した者は源氏か平氏ばかりというわけではなく
桓武天皇の皇子たちには良岑姓、長岡姓をもらって臣籍降下した者もいる

101: 2012/03/18(日) 10:48:09.20
古代からの対峙関係だと思ったが・・?
違うのん?

102: 2012/03/18(日) 23:09:17.15
>>101
順序がめちゃくちゃ
桓武天皇の息子の嵯峨天皇が先になってるw

104: 2012/03/18(日) 23:25:24.06
桓武平氏は、桓武天皇皇子より数代後に、平氏の名乗りと聞いてたし、清和源氏も、清和天皇から数世代後に名乗りだからね。
皇子でありながら、源氏と最初に源姓を賜り、名乗った光源氏=源融に、憧れ、触発されて、桓武平氏や清和源氏と自ら名乗ったと認識してるがね。

105: 2012/03/18(日) 23:28:23.32
清和皇子筋源氏・桓武皇子筋平氏共に共通していたのは、武士が朝廷権威を支配しようとした歴史的経緯・・。

112: 2012/03/20(火) 12:24:59.11
■元弘の変(1331~1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の2つの城(細川御前田城、細川城山城)

【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【岡崎市西部、豊田市南部地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15~20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)

133: 2012/04/09(月) 11:11:33.97
鎮守府将軍が清和源氏だけ大量にいるからじゃねーの?
そんで頼朝で確定みたいなさ。
それに比べて藤原、平氏は臨時に適任者がいればみたいな扱い?

134: 2012/04/09(月) 12:29:23.59
>>133
逆に言うと、京の公家からすれば、辺境の蝦夷を狩ってる野蛮な田舎侍の頭に過ぎないのだろうがね・・。

135: 2012/04/25(水) 22:24:40.24
足利尊氏以降だろ
その前は護良親王、守邦親王とか親王将軍が続いてるし

137: 2012/04/25(水) 23:09:43.11
>>135
しかし、朝廷が信長に対して将軍就任を打診したという話もあるぞ

139: 2012/04/25(水) 23:32:14.76
>>137
信長とかっ・・
江戸時代手前の武将出して来て・・・何なんだか・・?

141: 2012/04/26(木) 02:34:34.56
>>137
さんしきのうちからなんでも選べってやつだろ?
信長は平氏を自称してたからな。

136: 2012/04/25(水) 23:06:32.59
頼朝が征夷大将軍になりたかった理由って、奥州藤原氏討伐のためかと思っていた。

138: 2012/04/25(水) 23:17:55.34
>>136
もう藤原氏が退治された後だから、別にならなくてもよかった
ただ義家がなれなかったので、その悲願を果たそうと思っただけ
だが、それが結果的に武家棟梁の政権開始と後世に認識されるようになっただけ

142: 2012/04/26(木) 08:43:17.56
平右大臣なんだから、自称じゃないだろ

143: 2012/04/26(木) 12:32:49.54
まぁ要するに信長の段階では
平姓の者が将軍になってかまわないと
朝廷が判断したってことだわな
果たして将軍=源氏なんて不文律は存在していたのか?

149: 2012/04/27(金) 00:51:21.37
>>143
ないだろ。徳川家綱後継問題で、宮将軍擁立計画が
出たぐらいだから。

144: 2012/04/26(木) 13:27:48.50
あんなもん林羅山がでっち上げただけ

145: 2012/04/26(木) 14:00:59.61
義昭が正式に将軍を辞したのはいつ?

146: 2012/04/26(木) 19:06:46.79
平家も北条も織田もあれだけの権力を握りながら将軍になってないからな

148: 2012/04/26(木) 20:27:16.26
>>146
織田は傀儡将軍を自ら追い出してるから
さすがにそんなもんなる気は更々なかっただろう

147: 2012/04/26(木) 19:37:52.84
北条は出自が低いから、権威を持つまでの時間が必要だった。

150: 2012/04/27(金) 12:41:28.07
じゃあ近代以降の後付けによるってことでFA?
まるで都市伝説だね
誰が最初に言い出したのかなぁ

151: 2012/04/27(金) 21:33:32.28
天皇家は清和源氏の本家だから例外的にOK。

153: 2012/05/03(木) 19:20:39.96
>>151
天皇家は清和源氏の元の桓武平氏の本家だからOK?

152: 2012/05/02(水) 12:03:55.81
藤原頼経はなんで婿養子にはならなかったんだろうか

154: 2012/05/04(金) 00:14:03.78
>>152
磯野家のマスオさん状態だよな
もっとも磯野家でのカツオはいないけど

155: 2012/05/04(金) 05:33:34.29
>>152
成人して用済みになったら京都に返されるから

157: 2012/05/06(日) 06:05:05.18
>>152
源氏より藤原摂関家のほうが格式が高かったからだと言われている
幕府が担ぐだけの将軍なら格式はなるべく高いほうがいい

156: 2012/05/04(金) 19:06:52.46
竹御所との間の子が無事産まれていればなぁ

158: 2012/05/06(日) 12:52:02.29
>>156
生まれたところで年頃になったら処分されて終わりじゃね?

159: 2012/05/19(土) 14:44:01.11
清和源氏以外の源氏を担ぐという発想はなかったのだろうか?

162: 2012/06/18(月) 02:08:50.13
>>159
後鳥羽上皇の乳母で権力のあった卿二位局(藤原兼子)が
後鳥羽の皇子を将軍に迎えてはどうかと北条政子に持ちかけたらしい(愚管抄)。
兼子が持ちかけたのは自分が養子にしていた頼仁親王(源実朝正室の甥)。
しかし、当の後鳥羽上皇が「日本を二分する」と反対しておじゃん。
親王がダメならということで摂関家からもらうことにした。

最初から天皇家→摂関家と朝廷からもらうことばかり考えていたみたいだね。

160: 2012/05/30(水) 19:24:30.50
別に源氏にこだわる理由がない。
というか源氏にはこだわりたくないだろw
足利やら新田がいるんだから源氏にこだわるならその辺を無視できなくなりかねん。
北条としては武門の将軍任官は絶対避けなきゃならんわけで。

163: 2012/06/19(火) 03:09:52.72
源氏のルーツは大阪
日本が天皇を中心にしたのが難波京(仁徳天皇などの皇居)(現在の大阪市)で行われた大化の改新 それは大化元年~平成24年の今も続いている

164: 2012/06/19(火) 22:42:31.28
平安時代だよ

165: 2012/06/20(水) 07:35:39.19
結果論としてだが足利尊氏以降だな。
それ以降は源氏以外で征夷大将軍になっている氏族はいない。

175: 2012/06/23(土) 23:15:28.49
>>165
宗良親王は?
李花集の詞書に「征夷将軍の宣旨など給はりしも」とあるということだけど。
もっとも、同じ自選歌集でも新葉和歌集では征東将軍になっているという
話だそうだが。(「皇子たちの南北朝」)
どちらも同じような時期に編まれているようだから、親王自身は対して区別
を重視していなかったんだろうね。

178: 2012/06/25(月) 06:12:01.97
>>175
家門に制限あるのは、臣下での話であって、皇族は基本、
どの官職にも就けるんじゃない?(摂関でも大臣でも)

178: 2012/06/25(月) 06:12:01.97
>>165
厳密に言えば、徳川幕府以降だろう。
徳川家康が足利義満の征夷大将軍、源氏長者、淳和奨学院両別当の補任を
先例として、以後慣例化と言うことだろう。(秀忠の例外があるが)

168: 2012/06/21(木) 04:25:37.57
源氏しかなれません 

169: 2012/06/21(木) 09:55:52.90
総追補司・総地頭は誰でもなれるの?

170: 2012/06/23(土) 09:02:59.62
平清盛が実権掌握して実質上の武家政権が確率した以降、
奇しくも平氏(系)と源氏(系)が交代で実権や政権を持ち回り担当。




171: 2012/06/23(土) 09:24:42.66
秀吉は?

172: 2012/06/23(土) 09:26:46.10
後醍醐帝は?

173: 2012/06/23(土) 09:55:51.11
信長は自称平氏
家康は自称源氏

174: 2012/06/23(土) 22:11:55.06
平信長、源家康として 任官してますが?

176: 2012/06/24(日) 14:54:42.36
德川将軍家の正史である「徳川実紀」に
将軍家綱が死んだあと大老酒井忠清が有栖川宮家から幸仁親王を将軍に迎えようとしたが
堀田正俊らの反対で実現しなかったと書かれてある

179: 2012/06/25(月) 08:28:06.74
征夷大将軍≒幕府 だと勘違いしてるやつww

180: 2012/06/25(月) 09:19:00.82
>>179
お前こそ幕府なんてのは江戸中期以降の呼称であるって事を知らなかっただろ?

181: 2012/06/25(月) 09:28:15.00
>>180
逆ギレですか?

182: 2012/06/25(月) 10:25:12.45
>征夷大将軍≒幕府 だと勘違いしてるやつ

などと下らん馬鹿げた事で突っ込む奴の方がアホすぎ

183: 2012/06/27(水) 00:47:11.42
なぜ秀吉は征夷大将軍になれなかったORならなかったのか?

184: 2012/06/27(水) 08:24:10.94
>>183
関白になって公家と武家の融合政権を作ろうと思ったから

征夷大将軍って武家のトップでしかないんだよね

185: 2012/06/27(水) 22:03:56.73
摂関も公家のトップでしかないけど。
「鎌倉幕府」成立から秀吉までの間に、摂関が公武のトップになった
時期はないね。

188: 2012/06/28(木) 14:50:53.23
>>185
将軍不在時には摂関がトップでしょ
摂関不在でも将軍が公家のトップに立つことはないが

191: 2012/06/28(木) 21:50:29.08
>>188
将軍が京にいなかったときやら空位だったときやらといろいろ
あるが、摂関が武家のトップに立ったことなどないね。
摂関が「武命に違う」等々の理由で追放、解官されたりといった
事例はあるけど。

193: 2012/06/28(木) 22:11:02.59
>>191
豊臣秀吉は摂関でありながら武家のトップだったじゃん

186: 2012/06/28(木) 00:17:37.01
まあ秀吉が征夷大将軍になりかったってのは林羅山の嘘だから

187: 2012/06/28(木) 12:59:50.40
秀吉は天皇になればよかったんだよ

189: 2012/06/28(木) 19:00:03.70
室町殿が公武のトップになった事例はあるな。

192: 2012/06/28(木) 22:10:00.96
>>189
「室町殿」は極官が太政大臣
摂関になったことはなく公家のトップに立ったことはないよ

194: 2012/06/28(木) 22:23:14.99
>>192
「室町殿」の権威そのものが摂関を超越していたということだろ?
摂関が無条件にトップでという前提を立てているけど、そもそも
そういう官位を超越した形での摂関の権威そのものが、実力と
伝統以外に裏付けをもたないもの。
将軍家・武家の力と財力に圧倒され、摂関自身が実質的に家
礼として伺候する状態であり、将軍家の意に反するものは公武
問わず解官・追放される状態だった以上、摂関も含めた公家の
上に立っていたと評せざるを得ないだろうね。

195: 2012/06/28(木) 23:24:01.24
>>194
「権威」で話をするなら江戸時代の将軍は摂関はおろか
天皇すら超越してたんだがw

太政大臣が摂関を超越した地位とされたことはないよ
武力を背景に摂関や天皇に疑似させることはできたけど
義満の子は皇太子と同待遇だったしね

196: 2012/06/28(木) 23:30:50.19
>>195
摂関と比べるべきは「将軍」の方だろ?

197: 2012/06/28(木) 23:42:17.57
>>196
摂関が天皇を超えたことがあるの?

198: 2012/06/28(木) 23:47:30.72
>>194
それをいうなら鎌倉幕府の執権は摂関を超越していた
鎌倉時代のただの執権を自称する(朝廷に執権などという官位はないので)
朝廷から見たらただの東武士が摂関を自在に罷免し
天皇を廃帝とし上皇3人を島流しにしてたんだよ?

鎌倉時代以降、幕府が朝廷権力を超越していたことなど教科書レベルの話じゃん
なにも将軍じゃなくてもよかったわけ
執権でも摂関の任命権や天皇の罷免権を持てたわけだし

190: 2012/06/28(木) 21:03:23.64
足利義満は帝位算奪を考えていたってホンマ?

199: 2012/06/28(木) 23:56:25.51
得宗権力が確立した後の時期には、得宗が五位、北条他家が四位なんていう
状況が普通になったというな。
それはともかくとして、さすがに執権なり得宗のところに摂関が伺候したり、裾を
取ったりということは起きていないね。
室町将軍のところには年始の挨拶に伺候したり、裾を取らされたり、外出時に
付き従ったり、偏諱を拝領したりというようなことをしているけど。

200: 2012/06/29(金) 00:07:13.92
>>199
任命権・罷免権があっても「権威」とはいえない、
「権威」とは「年始の挨拶に伺候したり、裾を取らされたり、外出時に付き従ったり、偏諱を拝領したり」?
そりゃ、京都にいた室町将軍の特権だわ。
東国にいた江戸幕府将軍に対して摂関は一切そんなことしてないからな。

室町幕府将軍だけが摂関に超越し、江戸幕府将軍は摂関を超越してなかったわけか。
こじつけすぎたな。