1: 2011/12/21(水) 07:44:13.44
どうなってたかな?

引用元: ・新田と足利が手を組んだら

2: 2011/12/21(水) 09:33:32.40
足利もスバルの車ばかりになってた

3: 2011/12/21(水) 09:35:13.33
足利尊氏が将軍で新田義貞が管領とか?
もしくはその逆?
足利尊氏と新田義貞は鎌倉幕府の御家人であり、
執権北条氏と姻戚関係を持つ足利は特別待遇だったとはいえ、両者は同僚だった。
どっちかがどっちかの下に入るのが嫌だったからこその合戦だろうに。

4: 2011/12/21(水) 10:38:45.40
だから組んだらどうだったかの話なんだが。
そもそも有り得ないとか寒い。

5: 2011/12/21(水) 11:14:34.14
>>4
組んでも子か孫の代で謀反だろ
だいたい、足利一門の斯波氏ですら鎌倉幕府では同僚の御家人だったとして
ときの斯波氏当主が足利家管領となって尊氏の部下になることを拒み、
やむなく当主の子が義詮の代に管領になってる

7: 2011/12/21(水) 21:30:41.05
>>5
鎌倉幕府では同僚の御家人だったのは北条も一緒だろ・・・
その北条には尻尾振ってたんじゃないのか・・・

10: 2011/12/22(木) 00:37:53.00
>>7
一番北条に尻尾振ってたのは足利だがな
鎌倉時代の足利歴代当主の正室はほとんど北条氏の娘で
足利氏はかなり北条の血が濃い
尊氏正室も執権の妹

6: 2011/12/21(水) 17:25:31.28
義包(義兼)は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。
世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。



そもそも足利一族は、新田一族に対して同族意識はない

104: 2012/08/25(土) 02:19:59.79
>>6
それって今川が勝手に言ってるだけじゃねーのか?

8: 2011/12/21(水) 22:22:09.83
大内みたいにはならんのかな

11: 2011/12/22(木) 07:36:52.94
義貞はどこの娘だい?

12: 2011/12/22(木) 13:27:07.02
北陸一の守護大名になってた。

13: 2011/12/22(木) 18:32:16.92
それはないな、義貞が北陸に落ちていったのは尊氏との抗争の末だから。

14: 2011/12/22(木) 21:56:29.51
岩松氏の成立過程とか鎌倉にいた義貞を追い出したのとか足利にはいい印象ないな

15: 2011/12/22(木) 22:12:49.68
天童(里見系新田氏)の家系を乗っとったのも最上(斯波系足利氏)だな
業が深すぎるぞ足利一門

16: 2011/12/23(金) 05:13:53.44
尊氏にとっては新田は外様になるの?それとも一門になるのかな?一応系譜じゃあ同族なんだけど、どういうことになんの?新田が心底足利と連携しますとなると、織田と徳川みたいな関係かな?それとも朝倉浅井?

21: 2011/12/23(金) 11:24:13.41
>>16
佐竹と武田も同じ関係
でも完全に他人の関係

17: 2011/12/23(金) 06:55:48.66
蘆名と猪苗代かな

18: 2011/12/23(金) 07:54:11.19
外様かどうかは関ヶ原前後に徳川に従属していたかどうか
一門かどうかとかとは別の話

19: 2011/12/23(金) 08:22:26.15
失敗国家

22: 2011/12/24(土) 09:32:53.22
新田系といえども当初から足利に付いた山名とか後に幕府中枢に入った大館とか居るしね。

でも、本家としては鎌倉陥落直後に臣従を判断しなけりゃ、あとは同盟する機会は難しいかな。

24: 2011/12/24(土) 10:08:06.84
建武の新政に首を捻った足利と新田の両者は、鎌倉で起きた北条時行の乱鎮圧の口実で鎌倉に向かった。
北条を駆逐して足利と新田は鎌倉から動かない。やられたと思った後醍醐天皇は護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。
って流れを考えた。
新田って自前の軍は集められてどれくらいなのかな。6000くらい?

25: 2011/12/24(土) 10:38:25.47
>>24
都からの征討軍を返り討ちにして、そのあとは足利+新田連合軍vs北畠奥州軍か。
如何にも先鋒を買った義貞が討ち死にしそうな展開だな。

27: 2011/12/24(土) 17:15:29.56
>>24
つーか、中先代の乱当時、護良は鎌倉に幽閉中だから
>護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。
ってのはないなあ。

じゃあ、誰が総大将よ?となると適任を思いつかないが。

29: 2011/12/24(土) 21:30:16.12
>>27
中先代の乱のときの官軍総大将は一応、成良親王でしょ。
足利直義が後醍醐天皇の命により成良親王を旗印として関東下向していた。
直義は中先代の乱のときに幽閉中の護良親王を殺害しているが、
成良親王は都へ連れ帰っている。

26: 2011/12/24(土) 15:19:11.71
その場合の先鋒は足利の武将じゃないかな?

28: 2011/12/24(土) 18:08:07.30
よっぽどのバカじゃない限り、足利と新田がベッタリだったら護良をずっと近くに置いておいたでしょ。
てか足利と新田って元々仲悪いの?

30: 2011/12/25(日) 09:12:20.15
>>28
よく知らんが新田荘と足利荘が隣同士でいざこざが絶えなかったとか・・・

31: 2011/12/25(日) 10:57:45.84
総相 川端達夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
法相 平岡秀夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
文科相 中川正春 在日韓国人法的地位向上議員連盟
厚労相 小宮山洋子 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟 自身の選挙区の太平建設と談合
国家戦略相 古川元久 パチンコ協会政治アドバイザー 

韓国人から賄賂を貰っている野田
韓国人の集いに参加している野田
野田は日本人じゃないだろ

32: 2011/12/25(日) 11:34:51.32
尊氏と義貞自体最初はふぅんって程度の認識なんじゃね?
しかし義貞は勝算があって立ち上がったの?

33: 2011/12/25(日) 12:12:54.86
>>32
義貞は鎌倉を攻める際、鎌倉から逃げてきた
尊氏の嫡男千寿王を保護してるからな。
同僚意識程度はあっただろう。

34: 2011/12/25(日) 13:36:08.74
隠遁癖のある尊氏と優柔不断の義貞が手を組めば……
現実主義の義直と積極決断の脇坂の二人で新政権樹立か反乱軍組織して兄に謀叛ちゃうか?

35: 2011/12/25(日) 13:54:21.10
>>34一色義直と脇坂安治ですか?

37: 2011/12/25(日) 16:54:18.52
正季「わしも仲間に入れてくれへん?」

38: 2011/12/25(日) 17:24:43.18
早めに尊氏に屈服してれば
関東管領くらいにはなれたかな?

39: 2011/12/25(日) 19:53:04.51
北条時代は心の中で二人とも
「いつか北条をつぶす」って思ってて、そのきっかけが欲しかったんだろう。後醍醐を後ろ盾につけて両者は倒幕へ動き出した。
足利は兵を万単位で繰り出せるから六波羅攻めちゃえ!負けても九州逃げちゃえ!って出来ただろうけど、義貞の場合は新田系集めてもようやく6000くらいでしょ?
それに六波羅陥落したから新田についた武将がたくさんいたわけで、義貞が立ち上がった時は自前の軍のみの算段でしょ?もしかしたら裏で足利と新田が通じ合ってて、新田の鎌倉攻めを六波羅云々関係なく支援していたのでは?

40: 2011/12/25(日) 20:06:10.33
無論、新田足利間でそれなりの連携はあったし事前準備もあったんじゃないかな。
そうでなければ越後勢などあんな早急に駆けつけられると思えんし、千寿王の合流もスムーズ過ぎるし。
そのへんの調整を誰がどう付けてたかは興味深いが。岩松とか船田かな。

41: 2011/12/25(日) 20:48:28.97
10段階評価
足利尊氏
武力 7
政治 6
知力 4

43: 2011/12/25(日) 23:56:42.62
何だかんだで足利と新田は談合があったって見解でいいって事かな?
たしかに幕府を倒すには六波羅と鎌倉を同時に叩かないと戦乱は収まらないし、新田が軍を挙げたのもタイミング良すぎだしね。
仮に足利系が加わらなかったとしたら…新田軍だけで鎌倉落とせたかな?もしかしたら尊氏と義貞が鎌倉をはさみうちにするって案もあったのかも。だけど新田だけで幕府倒しちゃったから後日揉めることにみたいな…

44: 2011/12/26(月) 10:32:13.76
>>43
足利尊氏はわずか4歳の嫡男千寿王(後の義詮)が
鎌倉幕府を倒したとか無茶言い出すしな。
尊氏は鎌倉幕府を滅ぼすまでは多くの武士たちと同盟関係を結んでいたが、
鎌倉幕府滅亡後は自分ひとりで戦功を独り占めしようとして
ボイコットにあった気がする。

45: 2011/12/27(火) 03:33:53.10
正直、北条家の勢力ってなんでこんなに弱かったの?
多くの所領を一族で独占してて収入も多かったし、多くの守護を兼ねてたのに。
後醍醐が敵になっても、それこそ持明院統の皇族を立てて朝敵でないと言うことは北条家にもできそうなものだけれど?
(それこそ当時の将軍である守邦親王を押し立てて戦うとか。)

47: 2011/12/27(火) 20:11:14.24
>>45
細川重男の「鎌倉幕府の滅亡」を読め。

46: 2011/12/27(火) 05:11:12.12
源氏の協力あってこその幕府だからなぁ

48: 2011/12/28(水) 02:22:22.31
我らは源氏

49: 2011/12/28(水) 20:56:59.86
実際のところ、源氏の我等が平氏の北条を討つという感覚が、当時の足利新田にどれだけあったかね。
正統化の根拠にはなりうるだろうけど。

治承寿永だって源平入り混じっての勢力争いってのが実相だし。

50: 2011/12/29(木) 06:52:16.87
もうこのころになれば源氏も平氏も関係ないんじゃないのかな?ただ北条の執権政治を転覆させたいだけでしょう。実際尊氏も六波羅倒した後シラネだったんでしょ?同族の新田に根回しして鎌倉攻めてよって言ったかもしれん。
なぜ新田が率先して兵をあげたのか?が俺にはわからないが。

51: 2011/12/30(金) 01:07:31.25
むしろ、南北朝時代になってからのほうが、やたらと何々の嫡流というのが幅をきかせる時代になったんじゃないかな。

新田も普通にいえば随分と没落してしまった旧家にすぎないのに、桓武平氏の北条はもとより、
弟の家系の足利よりも嫡流だと考えるからこそ骨肉の争いになったわけだ。
実際には足利は頼朝とも北条とも縁戚を重ねて鎌倉時代には有力者に成り上がっていたのだが。

52: 2011/12/30(金) 01:14:57.66
(続き)
もっとも、そんな没落旧家の新田から義貞という傑物が出てきた一方で、足利のお坊ちゃま尊氏がまったく無能だったせいで
南北朝の争乱が泥沼化してしまったとみることもできる。

53: 2011/12/30(金) 16:55:19.65
義貞が北陸で死ななきゃどうなるかわからんね

54: 2011/12/30(金) 17:01:26.72
「新田から義貞という傑物が出てきた一方で」

え?

55: 2011/12/30(金) 18:38:04.94
あれだけ出来れば十分傑物。
竜頭蛇尾の典型だから、もう一花咲かせて欲しかったとは思うが。

57: 2011/12/30(金) 23:13:50.82
北畠はなんで義貞嫌いなの?

58: 2011/12/31(土) 00:42:39.66
北畠親房は、一般には貴族意識で武家全般を低く見ていたといわれているが、
義貞の場合は、最期が余りにあっけない犬死だったからガッカリ感が半端なかったことも加わったのではないだろうか。

それに北畠親房の思想は中世仏教的なもので、藤原氏や村上源氏(北畠など)の血統が栄えたのも功徳の高さ
ゆえというもの。
『神皇正統記』のトーンからは、武家ごときが高位高官にあずかったりしたのが分不相応だったがゆえに、
あっけない最期を遂げたと解釈されたのだろうなあと想像される。
しかも、義貞が尊氏よりも悪運が尽きるのが早かったのは、そもそも新田のほうが足利の末族にすぎないからだ
という解釈にもつながったのかもしれない。そこは少なくとも当家同士にとっては不正確な情報なのだが、
お公家さんからみれば末端のどうでもよい話、だったのだろう。

60: 2012/01/01(日) 05:22:39.32
尊氏は足利の世を作るために北条を倒したんだか分からん人だな。
結局武家の世をというならもっと新田とうまくやってればこんなに乱世にはなってないだろうに。そうではなく、ある程度力を持ってしまった新田は邪魔に見えたんだろうか。
中先代で新田が鎌倉行ってたらどうしたかね。

61: 2012/01/02(月) 18:18:14.55
鎌倉攻略が上手く行き過ぎたことが新田足利の不幸の始まりではあるね

62: 2012/01/02(月) 23:03:37.35
後醍醐が義貞に征夷大将軍を与えればよかったんじゃね?

63: 2012/01/03(火) 11:33:32.47
尊氏はルーピー鳩山みたいに優柔不断だからなあ

64: 2012/01/03(火) 15:50:18.22
直義までもが被害者に

65: 2012/01/03(火) 15:53:23.17
尊氏は担がれた神輿

66: 2012/01/03(火) 22:24:43.75
新田が屈伏して山名のように従えば
有力守護大名として生き残れたかもね
それ以外では手を組むってありえないでしょ

67: 2012/01/04(水) 06:18:46.64
大内と新田

68: 2012/01/04(水) 19:31:02.29
問題はどこで屈服するかって話であって。

70: 2012/01/06(金) 01:12:09.89
村上氏

71: 2012/01/08(日) 04:29:50.66
新田宗家は、守護国も、国司任用経験もない一地方豪族。
足利は泰氏までは順調に「将軍家御門葉」「北条得宗家との婚姻による縁故」で守護、国司任用を受けて、国内各地に所領を増やしてきた、門閥。
足利が、血統では兄筋というだけで、生母もちがう異母兄弟の新田を同族として見るわけもなく、他の武士団でさえも、そこは見誤らないはず。
経済的に豊かでなく、鎌倉北条氏に冷遇されてきたからこそ、猪武者として先陣を切り、手柄をたてて後醍醐天皇から恩賞をあずかろうとしたんだろうな。

72: 2012/01/08(日) 15:35:07.26
なんで足利って万単位で兵動かせるのになかなか謀叛の兵を挙げなかったの?

75: 2012/01/09(月) 11:01:40.37
>>72
その足利の勢力が鎌倉幕府の恩恵によるものだから
鎌倉存続より滅亡の方が望ましいと思わなきゃ動かないだろう

73: 2012/01/08(日) 16:34:14.21
北条はその数倍動かせるから

74: 2012/01/09(月) 05:23:51.68
あっさり六波羅陥落したし、鎌倉攻めも分倍河原と極楽寺坂くらいで後はスンナリだから北条弱いんでない?

76: 2012/01/10(火) 15:36:32.76
最初は畠山貰ったり北条様々だもん

77: 2012/01/10(火) 16:14:30.76
兄筋なんて関係ないよ。
そんなこといったら、足利家、新田家ともに
それぞれ長男が家督を継承したわけではない。
新田家のほうでは、山名家や里見家は分家だけど、新田宗家よりも兄筋だし、
足利家のほうでも、細川家、畠山家は分家だけど、足利宗家よりも兄筋だし。

80: 2012/01/11(水) 16:59:26.58
>>77
そこは論旨からいえば掘り下げて語るポイントではない。
同族だから新田と足利が一緒に連携して…というような
話に対して言っているだけだから、わざわざ例をあげて
説明しなくてもわかった上で、おはなししてるんだお。


新田と足利の初代は、それぞれの母親が国司クラスの受領層の娘で
ほぼ同格の出自。ただし、その父の義国は、義重と同居して
いたから、義国の心の中では、義重が跡継ぎと考えていたと思う。


81: 2012/01/11(水) 20:06:38.02
>>77
なんで兄筋云々の話に脱線するのか意味が分からない。それこそ無関係な話だろ。

78: 2012/01/11(水) 07:08:24.85
斯波家もそうだったな。

ただ新田氏の場合、兄筋ということよりも、足利初代の義康が平治の乱の前に早世してしまったのに対して、
新田初代の義重が非常に長命だったから、鎌倉幕府草創期には新田義重が源氏の長老格だったということがあったんだろう。
そのため足利はおろか、娘婿・義平の弟だった頼朝に対しても若僧扱いしようとして、そのことが鎌倉期に冷遇される始まりとなったともいえる。

79: 2012/01/11(水) 13:12:09.69
政義のバカン

82: 2012/01/12(木) 10:39:43.52
新田義貞って本当に尊氏のライバルの地位にいたのかね
戦もたいして強くないし、源氏といっても傍流の傍流だし

83: 2012/01/12(木) 13:35:43.19
義康は当初義国の代理として鳥羽院に参向したのだから、義康が嫡子でしょ。出世も義重より断然早いし。

84: 2012/01/12(木) 15:36:02.83
ライバルにさせられた

85: 2012/01/12(木) 15:46:34.05
血縁は足利も新田もどっちもどっちでしょ
足利義兼は伯父新田義重の庇護を受けて育ったくらいだし
ただし義兼は頼朝挙兵に際して新田より先にいち早く頼朝に臣従、頼朝の信任を得て、
頼朝の妻北条政子の妹時子を妻とするよう命じられ頼朝の義弟となることに成功した
この先例により足利は鎌倉時代を通じて北条執権家の親戚として発展
足利氏歴代当主が北条氏の正室を娶っていたために鎌倉幕府御家人の中でも別格扱いだった

86: 2012/01/12(木) 19:00:35.35
源氏同士仲良くしようぜ

87: 2012/01/12(木) 20:20:43.03
船田義昌あるいは船田家の後裔がどうなったか詳しい人教えてくりゃれ

88: 2012/01/13(金) 04:35:15.42
荘園の大きさからいえば、義康な足利荘より、新田荘が大きく、荘園の形成に、源義国、義重ら親子が共に腐心したことが知られている。たしか義重を嫡子として扱っていたという研究者の論文が、いくつかあるはずだが、論文の詳細はわすれた。すまぬ。
義康は藤姓足利氏との所領を巡る緊張関係を優位にするため、中央に出仕して官位をあげて、権威で支配権を握ろうとしたと記憶している。

89: 2012/01/20(金) 23:17:12.56
たしか足利荘も領有していたのは半分だけじゃなかったか。
後の半分は、籐姓足利氏のものだったはず。

90: 2012/01/21(土) 07:32:05.69
新田荘って、「空閑の地」と言われていて、
平安末期には浅間山の噴火で荒れ果てていたので、
開発しなければ使えない土地だったと言われてるんだけど。

荘園の大きさで比較するなら、
まずは新田・足利ともに、本領以外に土地がない、
という前提になると思うのだけど?
因みに、新田氏は新田荘以外に、
八幡荘(高崎市の山名)辺りも所領だったようだね。
そもそも、初期は新田・足利が
別の一族という意識があったのかな?
義康が死ぬまでは、
都の義康
開発領主の義重
という図式だったのかも知れない。

91: 2012/02/12(日) 18:25:56.92
意外と義興・義宗がさっさと帰参したら許されそうな気がしないでもない。

93: 2012/03/07(水) 20:25:59.71
■元弘の変(1331~1333年)当時の室町幕府支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(足利一族、幕府執事、守護職)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(足利一族、管領家、守護職)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)

【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)

【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(足利一族、奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆 )の屋敷
・中条一族(足利被官、守護職、奉公衆)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷
・石橋一族(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15~20キロ】
・西条吉良一族(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川一族(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の屋敷

94: 2012/03/07(水) 21:04:46.52
足利が新皇、新田が摂関とかは?

95: 2012/04/22(日) 22:11:50.52
新田義貞は最強!
長男の義顕が非業の死を遂げた、翌年に金ヶ崎城奪還は、その証拠。
その後、子供の時の親友集めて物見に行って死んだのは、言わずもがな。
オレがそう認めているんだから嘘じゃない。
二刀流で日本の項羽とも称された武人。
義家、義朝、義経の源氏の強さを見事に受け継いでいた人。
尊氏とは正反対の、源氏の中の源氏と、なんで、こんなに、オレがエキサイトするんだw
とにかく義貞の悪口は許さん!人が良すぎたのが、唯一の。。。

97: 2012/04/23(月) 00:14:05.23
でたらめであってもそうでなくても、江戸時代では新田の代表が徳川宗家で、足利の代表が喜連川ということでよろしいですかな?

98: 2012/04/24(火) 19:06:57.19
>>97
徳川宗家は一応、新田とは別家を興した得川氏の子孫であって
新田氏とは違うということにしてたんじゃなかったかな
新田義貞を祖先としてあがめるということもしてないしね

100: 2012/05/16(水) 22:52:44.21
新田も足利も好きなので
戦ってほしくないのだが

101: 2012/08/15(水) 22:52:26.33
義貞の鎌倉攻めが成功したことが、逆に新田家の滅亡につながったんだな。

歴史の皮肉だ。


102: 2012/08/16(木) 12:29:08.62
清盛をみて思ったが、源氏と平氏で婚姻関係を結んで同盟を結べなかったのか
とは思う

106: 2012/09/06(木) 07:40:16.69
>>102
平忠正あたりまではやってたろ。

107: 2012/09/06(木) 07:42:35.73
訂正

>>102

平正盛あたりまではやってたろ。

111: 2012/10/06(土) 06:43:33.40
>>102
受領で院近臣かつ財産家の武士、平正盛の娘(平忠盛の姉)と、
源義家の嫡子、源義忠が結婚しており、源氏内でさらに力をもつことを恐れた、義家の同母弟の新羅三郎義光が、
兄の義綱の犯行に見せかけて、義忠を暗殺したため、伊勢平氏と河内源氏の共栄はなくなった。
忠盛の忠の字は、姉婿である源義忠が烏帽子親だった可能性を示す。
義忠の子孫は、のちに義家流源氏の家督となった、為義にはつかず、平家とともに行動したことからも、源氏内部での対立の深さを示す。
平氏の側の問題より、源氏一族内部の内訌が問題だった。

103: 2012/08/17(金) 14:06:41.56
婚姻関係を結んでいたにも関わらず、まったく関係改善や抑止になってない例もあるけどね。
(南北朝の両天皇家、豊臣・徳川とか)

108: 2012/09/07(金) 02:41:33.25
義家の母親は平直方の娘

109: 2012/09/26(水) 04:49:08.67
新田は足利が六波羅を攻めてるって知ったのは、自らが出立してからでしょ?仮に談合で尊氏と義貞が出立する日を示し合わせてたとして、六波羅攻略失敗したらどうしてたのかな。新田軍は史実通り膨れ上がってた?
それとも多摩川渡れなかったかな?

110: 2012/10/02(火) 16:24:46.83
たぶん尊氏は義貞に千寿王を向かわせたのは足利と新田が一緒になって北条を倒しましたってアピールしたかったんじゃあないの?
倒した後は天皇に任して新田と仲良くしたかったんじゃあないかな。

しかし新田の小さな勢力がなぜ北条を倒すと軍を挙げたんだろうか。
もっと他にも新田以上の力を持った一族は関東にいただろうに。

112: 2012/10/18(木) 18:31:54.74
新田だけで鎌倉は落とせないが、関東の源氏が動いたって事で鎌倉方には動揺させる効果はあったんじゃないか?

それか尊氏が、新田に鎌倉攻めさせれば鎌倉方の軍は新田にかかる事になるから、六波羅に攻めてくるのを遅らせる事ができる程度に思ってたのかな?
後者だと千寿王を新田にやった意味が理解不能なんだが。なぜ新田に逃げたのか。最初から新田のとこ逃げろと言ってたんなら談合済みか。

115: 2012/10/19(金) 11:53:18.08
>>112
鎌倉が滅んだのは新田義貞の功績ではなく、足利家嫡男である千寿王が旗印になったことにより
関東武士たちが皆が味方したから、というのは尊氏の妄言でしょうね。

叔父赤橋守時の庇護下で育っていた千寿王は鎌倉脱出が遅れた、
新田義貞が尊氏の協力者として保護してあげた、という大河「太平記」あたりが真実だと思うけど。

116: 2012/10/20(土) 12:58:26.42
>>115
鎌倉陥落後足利方に参集する武士たちの多さが当時の
足利と新田の力の差を物語っている。結果的には足利が手柄を
横取りした面は否定できない。ただ鎌倉攻撃には白河結城や信濃の
小笠原なども参加しているようにどう考えても当時の新田の影響
できたとは思えない連中が多いから足利の影響力も無視できんと思う。

千寿王の鎌倉脱出は慎重にしたから遅れたのだろう。現に千寿王の庶兄は
殺されている。

113: 2012/10/18(木) 22:07:29.95
所説あるが、千寿王は何処かに潜伏していたところ、新田方が思わぬ大軍勢に膨れあがった形勢をキャッチした腹心に連れられて
新田方に合流した、あるいは鎌倉陥落後に押っ取り刀で細川さん兄弟に連れられてやってきた、というあたりがリアリティがありそうに思う

114: 2012/10/18(木) 22:09:48.34
所説→諸説
細川さん兄弟→細川三兄弟

117: 2012/10/21(日) 04:29:15.41
よく分からんが鎌倉を三方から攻めた時、軍を割いたのは義貞の独断なのかな?足利方は義貞の命令通り、すなわち鎌倉攻めの大将として認めて従ってたのかな?
戦が終わった後は義貞は足利方の論功についてどう考えてたんだろう。
手柄は平等って感じなのかね。

118: 2012/10/21(日) 14:08:27.45
三方を任されたのが、義貞本人と大館、堀口という新田直系だから現場の指揮権は義貞にあったんだろう。

それが陥落後の政治的な局面で、見事に足利に政治的に逆転されたね。

119: 2012/10/21(日) 15:33:31.28
鎌倉攻めに参加した武士たちの多くがが戦功を記した軍忠状を足利に提出した
ことから新田が追い出されたのは当然の流れだがね。

指揮官とはいえ護良の令旨(綸旨は怪しい)しか持たない無官の新田では不安を感じるの
も仕方がない。

120: 2012/10/21(日) 15:49:31.34
だな。

121: 2012/10/21(日) 16:15:57.99
で、鎌倉を出たあと、結局一度も鎌倉にも上野国にも戻ることなく討死。悲しいのう。

122: 2012/10/22(月) 15:42:18.86
150騎だけで鎌倉倒してたらどんな名将にも劣らぬ名声を手に入れられたかもね

123: 2012/10/30(火) 00:03:25.01
まさか尊氏は無位無冠の新田が鎌倉にいても人望は集められず、いずれ鎌倉で戦った武将は足利になびく事まで予想して、新田を鎌倉攻めに立たせたとか?まさかねぇ

124: 2012/11/02(金) 23:48:59.96
大族の足利のことだ、新田以外にも関東の諸将に声掛けしてたんじゃないか。
その中で新田が疾風のごとく鎌倉を落としたものだから話がややこしくなった。

125: 2012/11/03(土) 10:13:38.78
邪馬台国は当然、九州!
畿内説の人は、なぜ、巻向から九州の土器が出てこないかという重要な
ぽいんとをスルーしてるね。
それは巻向は古代出雲王国の都だったからだよ。
詳しくは「大和朝廷成立の謎」という本に書いてあるよ。

136: 2012/12/29(土) 08:36:23.11
>>125
邪馬台国は当然近畿辺りにあった
邪馬台は当時ヤマトに近い発音だったことくらいわかれよ
ヤマタイと読むのは現代読みであって当時の音ではない

126: 2012/11/04(日) 10:39:53.82
尊氏は鎌倉方を六波羅に向かわせないための時間つぶしとして新田を鎌倉攻めにと思ったんじゃないか?そしたら鎌倉落とされちゃってさあ大変となった。
新田は足利と手を取り合って天皇政治を盛り立てようとしたんだが、足利が新田ネガティヴキャンペーンを開始しておかしくなった。

127: 2012/11/16(金) 02:12:41.73
義貞が尊氏に鎌倉攻めの恩賞を頼めば良かったのか

128: 2012/11/16(金) 09:21:43.84
>>127
義貞と尊氏はただの同僚
当時の主君は後醍醐天皇だろ

129: 2012/11/19(月) 08:21:14.63
後醍醐と護良のリンジの差

130: 2012/11/19(月) 09:26:45.61
わきやよしすけ
あしかがただよし
くすのきまさすえ


この三者が三奉行

あしかがたかうじが将軍
にったよしさだが副将軍
くすのきまさしげ
きたばたけあきいえ
が二大老


でおけ

131: 2012/11/28(水) 08:09:14.57
新田義重の時代からずっと手は組んでたんだよ。
急速に仲悪くなったのは、たぶん後醍醐の尊氏外しからで…

132: 2012/12/20(木) 01:24:29.90
そもそも仲が悪かったら新田に千寿王なんか預けないしな(笑)

北条時代は新田氏は無位無官だったけど、新田系も全部無位無官だったの?

143: 2013/03/10(日) 18:48:40.25
>>132
鎌倉時代は足利氏も無位無官だろう
ただし足利は代々北条家から正室を迎え北条執権家の姻戚であったため家格は高かった
足利が有力御家人だったのは北条の恩顧の賜物だがその北条を攻め滅ぼしちゃったから
(尊氏の正室もまた北条氏であり足利全将軍に北条の血は流れているが)

144: 2013/03/16(土) 20:19:52.31
>>143
代々従五位だ

148: 2013/09/05(木) 23:51:25.66
>>132 >>135
亀レスだが

堀口貞義(従四位下美濃守)
岩松政経(下野守?)

133: 2012/12/20(木) 10:50:08.77
足利の尊氏、直義兄弟も、もともと「仲が悪かった」から分裂抗争に発展したわけでもなかろう。
権力闘争は不可避とはいえ、この時代の異常さは、尊氏の能力、資質に問題があった面も大きかろう。
家勢だけでなく能力、実績も上ならば、新田方も文句はいえなかったろう。

135: 2012/12/26(水) 21:19:25.42
>>133
堀口初代が何故か伊具北条と婚姻に成功して代々官位得ている
あと岩松が持ってなかったっけ

134: 2012/12/23(日) 17:58:56.37
手を組むと言っても勢力のでかさを考えたら新田が足利の傘下に入るようなものになっちまう。

137: 2013/01/07(月) 17:07:23.77
岩松が官位持ってて義貞が無官だったの??
岩松は義貞を操ってたのかな

138: 2013/01/12(土) 10:35:10.55
庶流でも嫡流の支配から逃れようとするのはもう珍しくない時代だから。

139: 2013/02/03(日) 14:22:44.48
義貞の時代になるともうどこが本家かワガンネ状態にまでなってたから
義貞が下手に一発成功してしまったからますます足利の傘下に入りにくくなった

政義って基地外だね

140: 2013/03/05(火) 23:48:15.45
岩松を呼べ

141: 2013/03/06(水) 18:42:54.50
船田ノ入道

142: 2013/03/08(金) 11:23:46.85
尊氏「鎌倉へ参陣の許可を!」

天皇
①「鎌倉を落としたのは新田義貞だから義貞を行かせよう」

②「お前だけだと何するかわかんねから軍監に義貞(脇屋でも可)を付けよう」

③「鎌倉に源氏はアカン!正成!」

このどれかだったら歴史は大きく変わってたよね。

145: 2013/03/20(水) 09:27:25.87
足利義氏 正四位下

146: 2013/03/22(金) 20:53:24.12
新田氏にしたら足利に及ばないとは言え、貧乏所帯からかなりの所領と播磨守まで拝領したわけだから
わざわざ足利の傘下に入って所領を安堵してもらおうとは思わなんだのだろうな
上手く欲で釣ってますよ

147: 2013/03/22(金) 20:54:56.53
×播磨守 ○播磨介

149: 2013/09/06(金) 00:00:48.44
新田宗家とはいっても没落寸前だったから。
庶流が力を持っていてもおかしくない

150: 2013/09/06(金) 16:17:52.18
新田は代々政治音痴というか世渡り下手が多いから
特に初代義重と四代目政義が致命的だった

151: 2013/09/06(金) 16:24:47.99
規模が違いすぎて、手を組むというより新田が吸収されちまう

152: 2013/09/06(金) 16:42:29.49
>>151
それはそれで良かったかもよ

なまじ後醍醐天皇に重用されたから夢見ちゃったのかもね
歴代の積み重ねでひらいた差を義貞の一代で逆転するなんて無理がある

153: 2013/10/02(水) 19:06:30.57
後醍醐のもとに集まったのは一発逆転を狙う連中だらけだけどね

154: 2013/10/03(木) 00:11:09.86
組んで天下穫っても共存共栄はないだろ。必ずお互い争う

155: 2013/10/04(金) 18:57:42.36
建武の新政って民主党政権みたいだな
幕府の閉塞感にうんざりした諸勢力の支持を受けて成立したのに、実務能力や利害調整能力がさっぱり
で、期待はすぐ失望に変わり分裂、内ゲバ
3年で崩壊するところまでそっくり

156: 2013/10/04(金) 22:52:12.40
>>155
歴史は繰り返すだな
後醍醐帝も学問だけなら英明と名高かったのに
どうしてこうなった。

157: 2013/10/05(土) 00:26:54.86
時流を読み違えたんだよ

158: 2013/10/05(土) 00:38:03.48
管総理と谷垣代表時代に、大連立してそれなりに実績作って、選挙制度も変えたりすればまた違った結果になったかもしれぬ

159: 2013/10/06(日) 05:50:27.15
新田さんが夢見ちゃったと言うけど、鎌倉攻めの勲功第一等の人が武者所長官を拝辞できないでしょ
西園寺か、泰家の逮捕の時に新田だけ現れなかったので内通を疑われてるのにさ

160: 2013/10/16(水) 00:26:51.09
新田義貞は木曽義仲と結構かぶる
政治に疎くて、治天の君にうまく利用されちゃった人
義貞は後醍醐天皇に弓引くところまではいかなかったけど

161: 2013/10/16(水) 16:03:57.15
これか?

滝村の万松寺本尊の台座に、「慈応山万松寺本尊 永享十二年 松平和泉守源信光」とあり、これは、信光三十七歳のときとされている。
また。岩津妙心寺願文には、「源氏の武運をして永代尽くる期無からしめんと欲す。--- 沙弥信光敬白」とある。
このように三河へ来住してからも、言い伝えとして源姓を表現しているのである。



伊勢氏に仕える前から和泉守だったんだな、出自の怪しい乞食僧の息子とは思えんな

164: 2013/10/16(水) 23:24:48.13
新田が足利の下で満足していれば丸く収まった気が
政氏以来そうだったんだからさ

165: 2013/10/17(木) 04:16:25.23
血筋的には足利氏祖の義康と新田氏祖の義重兄弟は元々どっちが格上、或いは源義国系の嫡流に近い立場だったの?
いずれにしても鎌倉幕府末期には外様御家人中最大勢力になってた足利一門が、冷遇され没落しきっていた新田一門を同格と見なせる訳も無く、共に生きるには新田が臣従する以外の道は無かったろうね。
まぁ新田が自らを足利の庶流と認める事ができれば、或いは鎌倉を攻め滅ぼした名声で斯波氏を抑えて足利一門の筆頭の地位を狙えたかもしれない。

175: 2013/10/22(火) 12:48:16.67
>>165
初期は新田氏のほうが優勢でしょう?
足利家は、実質的に新田氏の管轄下だったから。
まあ、これは、足利義康が早死、
新田義重が長く生きたのが影響しているが。

167: 2013/10/17(木) 12:28:49.97
もともと尊氏の対抗馬だったのは護良親王で、義貞が当て馬に浮上したのはその後。
武者所頭人も尊氏の私的な警察権とバッティングするポジションだから、そこから受けるべきではないが、
武家で足利兄弟以外第1位の勲功を得た人間がその地位を拝辞することは政治的に困難でしょ。
赤松さんみたいになっちゃう。

武者所はともかく、所領は新田一族ぜひとも欲しいだろうしね。上野、越後、播磨は新田氏的には満額に近い恩賞だったわけで、
これを守る「内圧」が生じる
尊氏が中先代の乱を鎮圧する際に新田所領に手を付けた際に「私も所領安堵して下さい」と願い出られないでしょ。
建武政権の要人が。結局、義貞は積極的に尊氏と対立したわけではなく、義重‐義兼以来の友好関係を重視しつつ行動するつもりが、
尊氏のような例外的ポジションにおられず、巻き込まれてしまってる側面のほうが強いんだよね。

168: 2013/10/17(木) 14:53:27.71
南北朝直後の尊氏も御輿に担がれてる感が否めないな。
高師直亡き後の反直義派の総帥に祭り上げられ対立

169: 2013/10/17(木) 22:38:55.10
そもそも鎌倉に反目する時点で、どこまでが尊氏の本意だったのか疑わしいところはある。
名門のボンボンとしてはそこまで大事にしたくなかったけど、家中の突き上げにあって、じゃあお前らの判断に従うよって感じだったんだろう。
幕府を開いてから弟に政事の一切を任せてしまったところにも、最後まで後醍醐天皇へ未練たらたらだった所にも
尊氏がイケイケ状態になってる一門に対し、どこか冷めている感じが否めない。

170: 2013/10/17(木) 23:45:58.77
それ以後、ひしと御謀反のことを思し召し定めて、上杉兵庫入道(憲房)を使者として、まず吉良上総禅門(貞義)に相談された。
「今まで、まだかまだかと思っておりました。たいへんめでたいことです。」と、お返事申し上げた。その後、ほかの人々にもご相談された。


このことは、関東をお発ちになった時から内々に上杉兵庫入道(憲房)が申し勧めていたようである。家時・貞氏(尊氏の祖父と父親)、この両御所の御造意を、
どうも殿(尊氏)は上杉だけに仰せ聞かせていたらしい。そのために、上杉はことさら骨を折って河原合戦で討死した。
これは、今の上杉中務入道(上杉朝宗(禅助)。『難太平記』が執筆された当時は関東管領だった)の祖父である。

172: 2013/10/20(日) 17:30:26.13
時に、南に正成あり、西に円心あり。くわうるに、四夷蜂の如く起こりて、東夷(北条)を窺う。
このとき、尊氏は東夷の命に随って上洛し、官軍の勝ちに乗るを見るも、なおも両端を相窺う処、
名越尾張守高家、戦場に生命を堕すの後、ようやく義兵を挙ぐ。高家、このときに当たりて、死せずんば、
あに尊氏、ひとり立ちて強敵に当たらんや。

173: 2013/10/22(火) 00:17:12.06
義貞が政治力ないってことだけど、戦事についてはそれなりの大将としての器はあったんでしょ?じゃなかったら北陸落ちまでに暗殺されてると思うんだが。

174: 2013/10/22(火) 02:28:09.56
政治力というのは本人の資質だけでなく環境や経験や人脈も大きい。安倍首相も一回目はあれだけぐだぐだだったのに二回目は別人みたいになっているし。
その意味で、足利氏と違い代々、鎌倉や京都の中央政界とはおよそ無縁だっただろう新田義貞がいきなり大出世してしまったのだから、
政治力については資質云々以前の問題だっただろう。
逆に言えば、義貞に突出した資質がなかったら、とてもあそこまでの活躍ができる位置にそもそもいなかった。

176: 2013/10/22(火) 13:47:58.99
義康死後、息子達の動向は不明だろ
本当に庇護を受けていたのかよ

177: 2013/11/08(金) 14:50:25.18
足利と新田は領地が隣接していること
義重の娘が足利義清(義康の長男)の妻になっていること
義康死亡時、義康の子はみな若年であること
藤姓足利氏という共通の敵の存在などから、
程度は不明ではあるものの新田は足利を後見していたとみるのが自然

178: 2013/11/11(月) 09:31:15.98
経済力軍事力政治力で新田など足元にも及ばない、義兼の母方は無視か?
京生まれ京育ちが、北関東などに行くわけねーだろ

179: 2013/11/11(月) 16:11:22.87
京生まれ京育ちが下向する例はいくらでもあるよ
ましてや足利は本拠地が北関東、しかも係争地なんだから

180: 2013/11/11(月) 17:04:55.22
母方の本拠地、母親の叔父、兄弟をはじめ、国人等の家来衆がうじゃうじゃいた三河をスルーして、わざわざ北関東まで行くわけねーだろw
東海道を下れば必ず三河を通るんだからよ
しかも三河は京に近い立地だ

181: 2013/11/11(月) 17:15:15.18
なんだただの三河厨か
相手して損した

182: 2013/11/11(月) 19:17:02.10
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい

・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移したとみられる


嘘ばっかついてやがるな
都合よく考えやがって

183: 2013/11/11(月) 20:02:33.52
矢田郷(矢田義清)も広沢郷(広沢義実=義清子)も義清と婚姻関係が
あるとされる山名義範の本拠、山名郷の南隣だね。

184: 2013/11/11(月) 21:08:47.56
源氏雌伏の25年、北関東に義清義兼がいた記録等は一切なし

186: 2013/11/11(月) 21:35:37.83
>>184
義兼は母系があれだから兎も角、義清が三河にいたという証拠はあるの?
義仲が挙兵後上野国多胡郡に入ったのは父祖の縁を求めてということが
主であるにしても、そこが傘下又は同盟者である義清の根拠地であり兵站
その他に便があるからだと思うんだけど

187: 2013/11/12(火) 12:19:13.13
三河の熱田大宮司家や頼政が保護していたんだろう
範頼の事例ををみても、三河の熱田大宮司家は面倒見がいいから


仲家と違って養子入りしなかったが、違和感ないわなw

・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→矢田義清

・源頼光→源頼国(美濃守)→源頼綱(三河入道)→源仲政 →源頼政→矢田義清

189: 2013/11/12(火) 23:10:40.10
下野に、細川氏仁木氏戸賀崎氏ゆかりが全くないのも不思議だよな
本当に関東からきたのかよ
関東から来たのなら、死ねば関東にも何らかの供養塔なりありそうなもんだがな
管領家として成り上がっても一切無視だ
義兼でなく、あくまでも義清の孫なんだからよ
家来待遇の零細御家人だったからと、簡単に話が済まされてしまうわな