1: 2012/03/17(土) 03:20:06.86
バランスの取れた家康評価をしていきましょう

引用元: ・司馬遼太郎の家康過少評価は異常

65: 2012/09/01(土) 15:40:16.36
>>1
家康のことを根暗な性格とか決め付けてたのが行け好かなかった。

2: 2012/03/18(日) 15:39:38.71
いまどき司馬(笑)の評価で家康語るやつなんかおらん。

198: 2013/01/24(木) 16:05:07.67
>>2で終わってた
てか司馬読まなくたって家康を好きになる奴は少ないと思うぞ

3: 2012/03/19(月) 16:05:59.77
司馬遼太郎はサントリーロックフェラー系の典型的な戦後日本破壊工作員じゃなかった

4: 2012/03/20(火) 04:15:26.21
いやむしろ評価しているほう
ただ嫌いなだけ

12: 2012/04/03(火) 19:30:13.58
>>4
司馬さんてツンデレだよな
乃木さんなんかも軍人としては酷評してても、一介の人間としては好きなんだろうなーってのが伝わってくるもん

5: 2012/03/22(木) 15:14:38.05
評価はしているけど、家康が朱印船貿易では秀吉以上の成果を収めたとか、
ノヴァイスパニア(メキシコ)との通商を望んで田中勝介を渡海させたとか、
ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを顧問として重用したとか、
家康の開明的な面はまったく描かず、田舎の陰険な爺さん扱いしたんだよね。

家康に関しては明らかな不当評価だと思われる>田舎の陰険な爺さん

6: 2012/03/23(金) 12:52:38.62
鎖国に関しては日本人の精神を培養したとしか評価してなくて
そこはさすがに「鎖国は百害あって一利なし」と言ってた海音寺潮五郎の影響を感じさせる

もっとも家康は鎖国政策じゃないけど

7: 2012/03/24(土) 17:10:54.85
司馬遼太郎なんて今や
結局、国際金融資本、ニセユダヤ銀行家の子分って評価しかないわ。

8: 2012/03/24(土) 21:50:03.40
じゃあ過大評価してる書を読めばバランス取れるじゃん

9: 2012/03/25(日) 14:43:12.55
山岡小説の宣伝乙。
>>8は講談社。

10: 2012/03/25(日) 16:39:51.70
というか小説家の書いた小説(所詮作り話)を信じるな
これは文学板で立てろよ

11: 2012/04/03(火) 17:28:13.86
司馬遼太郎著の「城塞」を読むと家康は策略家として
非常に高く評価されてるよ
ただし陰気な家康は司馬の好みではないというだけ
豊臣秀吉のとびぬけの明るさや織田信長の破天荒さが好きで
そっちのほうが生き生きと描かれてる

13: 2012/04/03(火) 20:20:15.01
>>11
城塞こそ家康を「陰険な策略家」として定義づけた間違った徳川史観の決定打みたいなもんだぞ。
妄想が入りまくってるしまともに読むに値しない。あれがいちばん大阪民国ナショナリズムが色濃く反映されている。

大阪の陣はいつまでも徳川幕藩体制下に入ろうとしない豊臣家に家康がしびれ切らせて起こした戦だろ。
豊臣家も色々意地はあっただろうけど上方の百姓や大名が豊臣家に加担する可能性は皆無

ちなみに大石慎三郎は「信長の構想を引き継いだのが家康。秀吉は傍流」と言ってる
信長&秀吉=明と、家康=暗を分けるというのは恣意的分類に過ぎない。
家康個人は閉鎖主義的発想を持っていたわけでも何でもない。ノヴィスパンへの使節派遣しかり朱印船貿易しかり

17: 2012/04/08(日) 15:15:03.73
>>13
なかなか家康に臣従しない秀頼に対して
大名から百姓に至るまで誰もが「秀頼を殺しちまえ!」という声が湧きあがり
渋々家康は秀頼を殺したというお前の考えもかなり偏った考え方だな。

20: 2012/04/08(日) 20:24:39.51
>>17
司馬遼太郎も作中で「秀頼さまにも困ったものだ、いいかげん新体制を認めろ」と諸大名に思わせているじゃんか。
司馬は関ヶ原での藤原惺窩と直江兼続の会話の描写なんか見る限り、
明らかに大坂の抵抗が「無名の師」であること自体は認めてるぜ。

22: 2012/04/08(日) 22:51:49.80
>>20 >>21
そうそう。
司馬遼太郎は淀殿を「女が政治をするなんてとんでもない」と酷評し、
適当な男に政治をゆだねるべきだと断言している。
家康は適任ではなかったが他に誰もいなかったわけだ。

司馬はむしろ家康を非常に「良い人」に描いている。
孫の千姫を愛し、千姫の夫である秀頼を殺すつもりはないと言わせたりね。
まあ、史実では殺しちゃってるからその事実は家康ひいきのおまえでも認めざるを得ないわな。

25: 2012/04/11(水) 19:35:41.76
>>22
城塞を読んで「家康はいい人」と言う感想を持ったとしたらお前の読解能力はかなり深刻だな。
城塞は徳川幕府と言う権力が正当性を獲得するためにいかにグロテスクな悪行をやらかしたか、
と言う政治劇を描いてるから、家康は悪の権化の扱いなんだけどね。

豊臣公儀の命を悪用した三成(じっさい、秀頼にしてみたらいい迷惑)を討ち、
失敗した豊臣の平和に代わって、徳川の平和を樹立した家康の体制に参入する意思がないということは、
すなわち謀反の意思を公然と表明したも同然。家康はこれを討たなければ政権維持の大義を失うことになる。

司馬もそれは頭では分かってるんだけど、素直になれないんだな。

23: 2012/04/08(日) 22:54:42.28
>>20
>秀吉がなき後は家康に後事を託す

秀吉は家康を信用し、幼い秀頼の後見人を任せた。
家康に後事を託すのは秀吉の意思だったわけだ。
まあ、秀頼殺して政権奪うとは思わなかっただけで。
朝鮮出兵してる暇があるなら家康を殺しておくべきだったというのが
後世の見解。

26: 2012/04/11(水) 19:41:35.49
だいたいね、膨大な国力を傾けた対外遠征に結果的に失敗した上に、
豊臣家譜代衆の間で対立が深刻化して家康に仲裁を任せてる時点で豊臣政権はもう終わってるんだよ。
自浄能力がないということなんだから。関ヶ原の戦いは豊臣家の内部抗争から勃発した戦争だぜ。
そんな家に天下を維持する能力がないのは明瞭だろうが。

>>23の朝鮮出兵をしてる暇があるなら家康を殺せと言うのは、完全な後知恵。
唐入りが成功した場合、家康は単に小田原合戦後10年しか経ってない関東の統治にかかずり合い、
急激に膨張する豊臣政権譜代の中で埋もれる危険性すらあった。
家康はよく秀吉の意を受けて関東、奥羽の統治に協力し、後顧の憂いを断った功労者と言うべき。
その家康の新領の直近に上杉家を移封するなんてことやらかしてる秀吉のほうがはるかに無神経。

18: 2012/04/08(日) 15:16:56.37
>>13
さすがに信長の後継者が家康だというのは飛躍しすぎだわ。
信長はむしろ家康を危険視して殺そうとしてたんじゃなかったっけ?
本能寺の変の時、明智光秀率いる軍隊は徳川家康を殺しに行くと聞いて
それで納得して攻めたというし。

20: 2012/04/08(日) 20:24:39.51
>>18
大石が言ってるのは「路線の後継者」と言う意味だよ。
もっとも、秀吉を異端と見る大石史観も、家康を異端と見る司馬史観も不正確。
だいいち、家康は秀吉政権の東の重鎮なんだから、家康を抜いたら政権が崩壊する。
秀吉がなき後は家康に後事を託すのが当たり前だわ。

22: 2012/04/08(日) 22:51:49.80
>>20 >>21
そうそう。
司馬遼太郎は淀殿を「女が政治をするなんてとんでもない」と酷評し、
適当な男に政治をゆだねるべきだと断言している。
家康は適任ではなかったが他に誰もいなかったわけだ。

司馬はむしろ家康を非常に「良い人」に描いている。
孫の千姫を愛し、千姫の夫である秀頼を殺すつもりはないと言わせたりね。
まあ、史実では殺しちゃってるからその事実は家康ひいきのおまえでも認めざるを得ないわな。

14: 2012/04/03(火) 20:27:56.46
結局、司馬の家康評価なんてほかに選択の余地がなかったからしょうがねえわ的なネガティブな評価で、
いかにも60年代の石投げて暴れる学生が多かった頃の評価だな。

24: 2012/04/11(水) 16:23:06.03
>>14
司馬が学生運動に否定的だったはず。

28: 2012/04/11(水) 19:54:01.11
>>24
高杉晋作、坂本竜馬は学園闘争の闘士たちのアイドル。
「天地静大」を描いて、日米安保闘争の暴力と混乱を批判した山本周五郎と違って、
司馬は暴力主義、革命主義に対しては必ずしも否定的ではない。

1968年は明治維新百周年だが、左の暴力主義が学園闘争の闘士。右の暴力主義が維新マンセー連中だよ。
日米安保で新左翼が大江健三郎を批判して石原を支持したことでも分かるように、
新左翼はむしろ暴力主義肯定の右翼と親和性がある。

15: 2012/04/08(日) 02:34:55.49
と言うか、戦国好きや歴女に、
家康って人気ない。

まあ偉大な策略家、政治家とは思うけど、
人物に面白味がない。

16: 2012/04/08(日) 13:49:52.21
>>15
「人物に面白みが…」、と言う時点で、
歴史をキャラで読んでるな。
あんな大政治家、面白いに決まってるだろ。

19: 2012/04/08(日) 15:55:26.40
信長の子供たちや秀吉の甥たちに対しても酷評している。

21: 2012/04/08(日) 20:29:00.99
大石が秀吉を異端と見るのは、確か
・秀吉の朝鮮出兵時代の国内の疲弊がはなはだしかった
・対抗勢力、反対勢力への粛清が陰惨。信長のほうがマシだった
みたいなあたりかな。
秀吉時代は明るい時代どころか…

27: 2012/04/11(水) 19:46:12.68
つまり家康が豊臣政権でのし上がったのは奇策を用いたからでも何でもない。
秀吉の唐入り構想のために関東に移ってまで協力して、大過なく任務を終えてるんだから、
秀吉も含めてドボンした上に内部抗争まで勃発してる豊臣家としては頭が上がるわけがない。
お家の存続の保証を家康に頼らざるを得ない。

なのに、天下無事平穏と言う世論を無視して大坂城で頑張ってるほうが戦国のアナクロニズムなの。

29: 2012/04/11(水) 20:22:29.78
家康を過度に贔屓するつもりもないし、秀吉を過小評価するつもりもないが、
少なくとも唐入りが失敗し、秀吉が逝去し、幼君が残され、内部抗争まで勃発した時点で豊臣家はそのままでは存続不可能。
ちょうど桜田門外の変、坂下門外の変が勃発した後の江戸幕府が立ち直るのを期待するようなもの。

あと順逆を論ずるならば、秀忠は秀頼の岳父であり、家康は秀吉の実の妹の婿だったわけでな。
豊臣家最大の外戚の恩情に素直に従わない秀頼も問題っちゃ問題だ。

33: 2012/04/13(金) 18:51:29.99
>>29
それを言うなら秀忠は秀吉の義子だし(正室江は秀吉養女)、淀殿の義弟でもある。
だからこそ秀吉歯秀頼を託したのに、秀忠は義弟で甥である秀頼と義姉である淀殿を殺害した。
朝日姫は家康と結婚後1年半で逃げ帰り、間もなく没しているので家康との姻戚関係は解消されている。
親戚だから豊臣は徳川に従わなけれないけないというのならば徳川だってその義務があるということ。
現実に、家康は秀吉生前、秀吉との姻戚関係強化を願っていたくらいだから。

34: 2012/04/14(土) 09:57:34.95
>>33
はっきり言って関ヶ原以降の豊臣家の対応はトゥーリトル、トゥーレイト。
討伐の憂き目にあったのは仕方ないよ。
まず豊臣政権譜代家臣が真っ二つに割れて関ヶ原の大乱を引き起こし、統治能力がないことを露呈した。
戦後処理を行った時点で、天下さまは家康しかなくなったのは明白になったわけだ。
ところが豊臣家は豊臣譜代の大名の仲介を頼みにしていっかな徳川家体制の中に位置づけられようとしない。
普通ならこの時点で討伐の対象になるところを、彼らの仲介やら秀吉遺児への義理やらで延ばし延ばしにしてたわけでしょ。

清正や浅野幸長みたいな仲介者が次々にいなくなった後でもまだ服属を拒み、
前田家を誘ったり、牢人衆を集めたりしてるんだから家康としては放置できないよ。

だいたい、主筋と言っても家康は秀吉の家臣ではない。
かつて家康が、同盟者の家臣に過ぎなかった羽柴秀吉に折れて政権運営に協力したように、
おとなしく徳川の平和に協力すれば、家康としては秀頼を大坂から出す程度がせいぜいだったはず。
現に家康は淀殿の江戸出府の条件で妥協しかけてるんだから。
何で豊臣家だけこんなワガママが許されるのさ。空気よめと言われても仕方ない。

30: 2012/04/11(水) 20:33:27.00
ついでに言えば大坂の陣でも、司馬は牢人諸将の意見に従えば大坂は徹底抗戦できた
みたいな書きっぷりだが、現実にはそんなことはまったくない。
真田と後藤の対立を司馬は「軍師二人」と言う短編できちんと描いてるからちゃんと知ってる。

徳川方は休戦交渉に際しても一貫して強気で臨んでいる。
妥協案を提示した大坂が折れざるを得なかったのが実情。

31: 2012/04/12(木) 20:59:58.67
喧嘩停止とか海賊停止とか惣無事令とか、あるいは禁教令とか、
家康がやってることはほとんど秀吉の国内政策を引き継いでんだけどね
何で家康が秀吉路線を否定したみたいに言われるんだかほんとにナゾだわ

対外政策で言えば家康は三浦按針、ヤン・ヨーステンを顧問として置き、
ノヴァイスパニアとの通商を求めて太平洋を渡航させるなど、秀吉よりずっと開明的に行動している。

32: 2012/04/12(木) 21:35:59.47
昔は、「織田がつき羽柴がこねし天下餅……」とかいって別に路線否定とまではいわれてなかったと思うが?
あくまでも「鳴かせてみせよう」と「鳴くまで待とう」のキャラの違いとしてイメージされていた。
ただ、三代目の鎖国政策が家康のイメージに投影されがちというのはあっただろうけど、それはあくまでもあまり詳しくない人のレベル。

34: 2012/04/14(土) 09:57:34.95
>>32
「座りしままに食うは徳川」は棚からぼた餅と言う含意。江戸時代末期の落首。
版元が処罰されてるから、肯定的な意味合いじゃなかったのは明らかだよ。

35: 2012/04/14(土) 10:02:40.74
大坂の陣だって、本来は強硬手段を取りたい所を、豊臣譜代衆に配慮して延期してただけなんだから。
それなのに牢人衆集めたりしてたらそりゃ討伐されても仕方ない。

方広寺鐘銘事件が言いがかりとみなされてるから家康の陰謀家ぶりが強調されてるけど、
「国家安康」は確かに無神経と言われても仕方ないよ。
はっきり言って大坂の陣を引き起こした責任は、余計な軍事的・政治的策動を繰り返した大坂方にある。

37: 2012/04/21(土) 10:32:07.21
>>35
>主筋と言っても家康は秀吉の家臣ではない

えっ?
徳川家康は豊臣秀吉に臣下の礼を取っているよ
信長とはただの同盟者だったけど
それに家康は秀頼に臣下の礼を求めているよね?
臣下の礼などもとめずただ徳川の同盟者として大阪城から出て
領地替えに応じれば殺すつもりなどなかったなどただの妄想

39: 2012/04/21(土) 12:55:04.81
>>37
「主筋」と「家臣」は違う。
家康は臣下の礼は取ってるが、豊臣家の譜代の家臣とは違う。もともと自立の諸侯。

あと、家康が秀頼に臣下の礼を求めるのはそれと同じ。徳川幕府秩序の中に位置づけられろと言うこと。
当たり前の要求でしょ。それに秀吉と違って家康には秀頼の扱いに対して倫理的な困難がある。
いったんは秀吉政権を支える立場になり、豊臣家を主筋として自分の孫娘まで嫁がせているのだから、
秀頼が徳川体制に入る意思を示しても、殺したとなれば倫理的非難は免れられない。
それ以前に豊臣恩顧の大名が納得しない。

だから家康は秀頼に強硬手段を取れず、伝手を求めて何とか自発的に徳川体制に入ってもらおうとしたわけで。
おそらく秀頼が大坂城を出てたら、家康の一代に限っては豊臣家は身上を保障される。
秀頼が千姫に子を産ませて隠居すればなお安泰。少なくとも御家門以上の扱いにはなる。

38: 2012/04/21(土) 10:35:14.90
>>35
「豊臣を早く滅亡させて!」というのは誰もが願ったことで
徳川家康は必然性から正々堂々と大坂の陣を敷いたというのならば
そもそも鐘銘事件など起こさなくて良かった
徳川家があちこちの大名に粛清かけたように豊臣家を粛清すればいい

実際にはまだ豊臣家が主家と考える大名がいたから理由づけが必要だったんでしょ?
なんくせつけずに「粛清」のほうがまだましだった。

36: 2012/04/14(土) 10:32:57.20
結局、大坂は牢人衆召し抱えによって逆に暴走して抑えが効かなくなったんだな。
片桐どころか、夏の陣直前には大野治長まで襲撃されるありさまで、外交的な当事者能力なんて皆無に等しかった。

それと城破りの講和条件に際しても、軍事力の凍結を積極的に志向する徳川方と、戦国的な講和と捉えた豊臣方でギャップがあった。
(総堀の埋め立ては豊臣側も同意した条件)。これは後に福島正則も甘く解釈して改易されている。

家康は国内平和の維持のために徹底した軍事力の凍結を諸大名に要求しているし、
実際に喧嘩停止の徹底などで村落の武装にも干渉している。

40: 2012/04/21(土) 13:04:56.39
家康は征夷大将軍任官の時点では秀頼を粛清しようなんて考えてないって。
関ヶ原の後で会見を申し入れて何度も断られてるけど、子供を派遣して関係繋いでるんだし、
千姫だって約束通り輿入れさせてる。

豊臣討伐はその後の展開によるもので、当初から滅ぼそうとなんて思ってない。
その後徳川体制が固まるのに反比例して秀頼が無断任官するわ、出仕もしないわ証人も出さないわ謁見もしないわ、
あげくのはてに前田家を誘ったり、牢人集めて対徳川政策で暴走始めちゃったから
平和的解決を断念して戦争に突入したわけで。

あとね国家安康は失礼よ。一応、家康の諱を避けるくらいの配慮はしないと、叱責食らっても仕方ないよ。
冬の陣の段階だって、家康から仕掛けた戦争ならもっと良いタイミングを選ぶわ。
途中で講和したりせず一気に攻め滅ぼしてるよ。総堀だって大坂方が同意した講和条件だぜ。

41: 2012/04/21(土) 13:09:15.33
家康は豊臣家に対して相当配慮してると思うけどなぁ。
冬の陣の段階でも、豊臣家が牢人衆をコントロールできればまだ妥協の余地はあったと思うよ。

牢人衆がどうもダメらしいと見て、家康はあいつらを追っ払うか、自分たちが城を出なさいと言ってるわけで、
豊臣家の運命が決まったのは、牢人衆を召し抱えて北朝鮮化してからだな。先軍政治になっちゃっただろw
そういう意味じゃ、秀頼にとっては牢人衆なんて迷惑な存在でしかなかった。

42: 2012/04/21(土) 13:19:48.21
>そもそも鐘銘事件など起こさなくて良かった
>徳川家があちこちの大名に粛清かけたように豊臣家を粛清すればいい
>実際にはまだ豊臣家が主家と考える大名がいたから理由づけが必要だったんでしょ?

とんでもない。加藤清正、池田輝政、浅野幸長ら豊臣-徳川間の周旋に当たった大名衆は
鐘銘事件の前に没してるから、大幅に豊臣譜代衆の抵抗勢力は減殺されている。
鐘銘事件ていどで他の大名衆は納得しないよ。出師の大義名分に乏しい。
家康としてはその前から急激に反徳川姿勢を強めていた大坂方を、この事件で呼び出して和戦を決める二者協議に入ったわけ。
ところがその徳川方の主張を持ち帰った手筋の片桐が謀殺されかけて手切れになり、開戦に至ってるわけだ。

このパターンは夏の陣の前の大野治長襲撃とまったく同じ。

43: 2012/04/26(木) 09:27:28.70
城塞の頃は老練な家康像なんだからしゃーねーべ。
覇王の家んときもそうだっけ?

44: 2012/04/27(金) 12:38:09.56
それは人によるな。
戦前でも家康は質素、忍耐、律儀などの側面が強調されておおむね人格者扱い
山本周五郎や山岡荘八は家康好きだしね。司馬のようにダークな人物として描くほうがマイノリティ
まあ、それが60年代の学生運動をやってた人間たちのメンタリティのようだが

45: 2012/04/27(金) 22:00:59.70
司馬遷は謀略で金玉切り取られた。
当時の士大夫なら自決するのが普通の屈辱を耐え、その怒りと恨みで史記を書いた。
これは歴史というのは必ず誰かの感情なり、対場を反映した視点がはいってる事のあらわれでもある。
真に客観視した歴史などどこにも無い。
遼太郎はその「視点」が自分の主観で良いんだという事をどこかの時点で気がついたんだと思うよ。




46: 2012/04/30(月) 14:22:09.13
以前読んだ史料で大阪の陣の頃は大阪征伐は止むを得ないという空気が大名の間
に漂っていたと書いてあった。
大阪方のかたくなさが不思議。服属さえすれば何らかの形でお家は存続出来たはず。
秀吉自身が織田家を簒奪し天下は強い者が得ていくというのを体現しているのに、
家康が同様の事をしても許せなかったのは何故なんだろう。

48: 2012/05/03(木) 02:34:43.51
それは違うだろ。
まず慶長16年(冬の陣の3年前)の会見は妻の祖父との会見という名目で、幕府秩序への臣従かどうかの位置づけは争いがある。
さらに大坂の陣の前には無断任官、牢人徴募、はては前田家との同盟を模索するなど(…「城塞」の序盤に記されている)
露骨に幕府への敵対姿勢をむき出し始めた。
家康もこの動きを見て開戦に備えていたが、豊臣家が二条城会見で「宿題」であった臣下の礼をはっきり取っていれば、
以後、こんな問題は起きるはずがないし、起こしたとしたらすなわち「謀反」。

牢人問題に関しては、冬の陣で徳川方は不問に付す=罪を問わないと約束している。
しかし大坂方はここで牢人諸将とその軍事力を引き続き温存したまま。
これは、のちに福島正則に対しても一国一城令の徹底を求め、軍事力の凍結を強く求めた家康から見たら、
明らかな違約行為。

大坂方に同情的な解釈をすれば、家康と大坂方には認識ギャップがあった。
家康は文禄慶長から10年間引き続いた内乱・外征を終結させるために軍事力凍結を強く求めたのに対して、
福島や豊臣家は戦国時代的な「城破り」つまり、武力の行使を前提とした一時停戦としてその要求を受け取った。
だから総堀問題や牢人問題で講和条件を破ったと受け止めた家康が態度を硬化させてるんだよ。

>>46
大坂方に同情すべき点があったとすれば、軍事力の中核となる牢人諸将の召し抱えによって、
彼らが対徳川強硬路線を唱えて講和に反対した。
対徳川外交を担当した片桐が追放され、冬の陣の講和を纏めた大野治長が大事な折衝の段階で銃撃されるなど、
大坂はちょうど軍国主義日本のように軍部が独走した状態になり、まともな外交が出来なくなってたんだろう

51: 2012/05/03(木) 22:30:38.93
>>46
坊やだからさ

47: 2012/05/02(水) 20:52:48.40
>服属さえすれば何らかの形でお家は存続出来たはず。

大阪はその姿勢を終始貫いてる。
幕府発足以後はただの一大名にすぎないし、将軍である家康に臣従の挨拶もした。
結局、所領が大きすぎた事、関西という日本の要地を押さえていたため
徳川としても何かの名目をつけて討たざるを得なかった。

それにもう一つ、浪人問題もあった。
全国の不平氏族や浪人をまとめて始末するため大阪は利用された。

49: 2012/05/03(木) 02:49:13.73
たとえば織田有楽斎(長益)は関ヶ原の功労で大和、美濃に父子とも所領を与えられた大名であるが、
冬の陣では父子で大坂に入城して秀頼を助け、和睦斡旋に務めている。
戦況が絶望的になった夏の陣直前までも大坂にあったが、事態は彼の手に負える所でなくなっており、
「許可を得て」城を退去している。
徳川から豊臣に移籍した七手組の青木一重も、冬の陣の講和で徳川方との外交を担当していたが、
京で拘束され、大阪の陣後は出家している。

このように徳川・豊臣間の和睦を取り持とうと懸命な動きがあったにも関わらず、
結局、豊臣家は牢人諸将の暴走もあって生かせなかったんだよな。
司馬は織田長益や青木一重をスパイと決めつけて、やたらに牢人諸将をほめたたえるんだが、
その牢人諸将も譜代の毛利勝永を除いて、後藤、真田らは決して上意に忠実だったとは言えない

50: 2012/05/03(木) 22:28:15.87
大野さんも城中で襲われたしね

52: 2012/05/17(木) 03:35:17.13
城塞は「大坂は本気で戦えば徳川に勝てた」と言う大阪人司馬のルサンチマンの塊

53: 2012/05/17(木) 21:42:09.92
>城塞は「大坂は本気で戦えば徳川に勝てた」と言う大阪人司馬のルサンチマンの塊

本気が出せないように家康は謀略打ってたでしょ。秀頼は最後まで出馬しなかったし。

55: 2012/05/18(金) 04:14:44.10
>>53
謀略も何も、秀頼は後にも先にも一度も陣頭指揮してないじゃないか。どこで謀略だと分かるんだ。
お前まさか、秀頼が出馬してたら勝ったとかいう大ガセ信じてるのか。すごい洗脳効果だな

54: 2012/05/18(金) 04:12:22.29
城塞を史実と取り違えてるやつがほんとにいたのか。

56: 2012/05/18(金) 08:32:16.03
大阪民国人は執念深い

57: 2012/05/18(金) 22:25:25.14
大坂は最強だ。文句あんのかてめーら。

58: 2012/05/19(土) 05:49:43.25
秀頼は肥満で陣頭指揮取れなかった説まであるんだよな…

59: 2012/05/19(土) 17:35:59.37
秀頼が天王寺合戦に出馬するのは難しいだろうね。
前日の道明寺合戦で真田信繁は後藤基次救援に時間的に齟齬を来たして失敗してる。
これだけで城内には真田に対する不信感が強まっただろう。牢人諸将間には対立もあったようだしね

しかも、天王寺合戦って実際は一刻半くらいの短時間で終わり、その直後に大坂城が炎上している。
秀頼が天王寺口まで出ている間に、追い詰められた城から内応者が出る可能性がある。

60: 2012/05/19(土) 17:40:47.56
慌てて牢人をかき集めたはいいけど、牢人諸将を統制する力が譜代衆になくなってしまった。
もし譜代衆がきちんと統制してたら秀頼出馬もあり得ただろうが…

61: 2012/05/20(日) 07:42:14.51
家康の本陣に迫ったと言っても、数万規模の激戦で旗本が混乱したくらいで、
家康が自刃を決意するほどの状況だったかと言えば明らかに創作だな。しかし司馬は創作は全面採用なんだよね

62: 2012/05/20(日) 07:50:35.64
家康好き=山本周五郎、山岡荘八=暴力否定、秩序維持、漸進改革、学生運動その他暴力的運動に否定的=戦前の暴力と戦後の暴力の反省
家康嫌い=司馬遼太郎=暴力肯定、「この世には有益な暗殺もある」みたいなことを堂々と書いちゃう

で、60年代~70年代前半だけは家康を異常に否定する基地外が増えた
しかしいつの世も平和と穏健と秩序維持が好きなので、家康は80年代以降再評価されて今に至る

66: 2012/09/08(土) 01:15:11.49
>>62 歴史を進めた暗殺は桜田門外事変だけ、と司馬先生は仰っておるじゃろ。
とにかく、徳川260年が日本を貶めたのは事実。

68: 2012/09/14(金) 14:11:02.33
>>66
日本を最大に貶めたのは昭和の敗戦だ

73: 2012/09/27(木) 18:27:31.46
>>66
全然事実ではない、江戸幕府は国内の内乱から喧嘩に至るまで武力発動を停止し、
高税率で取った税収をガンガンインフラ整備に回し中期からは驚異的な低税率を実現
おかげで民間に資本が蓄積され産業が発展、幕末には工場制手工業も始まり日本はあっという間に近代化に適応できた

すべて「今後は民衆はむさと殺されることはない」とお触れを出した権現様のおかげ

76: 2012/09/28(金) 17:02:54.84
>>73
>中期からは驚異的な低税率を実現

えっ?江戸時代って末期になればなるほど税金足りなくて
庶民に重税課したり武士が内職したりしてたでしょ?
そもそも朝廷や幕府が徴税するのは農民からだけで
商人にはもともと税金が課せられていないから(室町幕府の政策である座だけが特殊だった)
権現様のおかげで工場制手工業が始まったわけでもなんでもない

79: 2012/09/28(金) 23:21:54.11
>>76
いや、渡辺崋山は伊豆で「天領の百姓は生活がどえらく楽ちんだから俺らも天領の百姓になりてえよ」
と言ってるのを聞いてあきれたと日記に書いている。天領の百姓の生活はうんと楽だよ
武士は地獄。だって米価がどんどん下がる上に、俸禄は変わらないから内職をせざるを得ない
しかし武士は公務員なので、公務員は超安月給

商人は元々税金が課されていないから、実際の国民負担率はもっと低かった可能性が高い
それは権現さまが軍事力凍結を宣言して喧嘩停止を徹底し、インフラ投資に熱意を注いだ延長線上にあるわな。

63: 2012/05/20(日) 07:52:29.08
と言うか現代の家康再評価は、家康は秩序維持者ではなく、天下泰平を達成し、
かつ秀吉みたいな殴り込みをせずに海外交易を活発に行った明るい男と言う評価なんだけどなw

64: 2012/05/20(日) 11:52:10.33
長宗我部、木村らの諸隊が八尾と若江の戦闘で壊滅してるので手持ち戦力がない

67: 2012/09/14(金) 06:18:48.56
司馬は徳川政権は大坂を優遇してくれたと繰り返してるが

69: 2012/09/16(日) 06:07:25.36
利家が死んでも野望をむき出すことなく秀頼の後見をして豊臣を守れば忠臣かもしれんが
形としては御家乗っ取りかつ主人一家を殺害だから好かれるわけがないw

71: 2012/09/16(日) 18:33:08.44
>>69
家康は秀吉の遺命を忠実に守ってただけなのに
三成はじめ西軍陣営が野心剥き出しで暴走したから制裁した。
大坂の陣は淀殿と秀頼が無能かつアホだったから自滅した。
はい論破。

72: 2012/09/17(月) 00:12:35.58
>>71
太閤の御置目を守るどころか私的婚姻を進める家康
この時に利家ら四大老で家康をきっちり処断してればよかったw。
利家が死ぬや、お家乗っ取りの障害がなくなり
利長や景勝に帰国を勧めては謀反のでっち上げ
前田は屈服したが上杉は屈服しなかったので戦になった。
(上杉は国替え[加増も]があったので浪人を雇ったり、城の普請は当たり前)
関ヶ原後も主君の秀頼に戦勝を報告してるわけだが
そのまま豊家の家老を続けるような家康ではないねw
いよいよかつての主家を滅亡させる大坂の陣では
家康本陣が崩れ[三河物語]かつての主君の義元と同じ目に
あいそうになったのはご愛嬌w

73: 2012/09/27(木) 18:27:31.46
>>72
きっちり処分したら豊臣政権の大番頭がいなくなって内乱勃発なんですけど?
だから家康をある程度牽制した後は和解したんだろ

75: 2012/09/28(金) 11:52:15.47
天領では国民負担率は30%以下。世界最低水準のアメリカよりはるかに小さな政府
百姓天国、商人天国、官僚は地獄、いつリストラされるか分からないから賄賂なんてもってのほかと言う世界

77: 2012/09/28(金) 18:23:53.31
田沼意次

80: 2012/09/28(金) 23:28:41.54
年貢率は天領の4公6民を標準としていました。将軍のお膝元の関東は関東郡代伊奈氏による独特の農業土木技術により新田を開墾し当初10年間は年貢を免除するなどの優遇政策を行いその間の実効年貢率は1公9民だったと記録が残っています。
(伊奈氏は天領の農民から「神様、仏様、伊奈様」と慕われていました。)「百姓は生かさず殺さず」という言葉は有名で、確かに徳川家の記録に残っていますが、発言したのは大久保長安で、
それを聞いた家康は「百姓は国の宝とんだ心得違いだ」と激怒したとの記録が残っています。明治時代になってから、新政府が自らの政権の優位性を主張するのに江戸時代の百姓は虐げられていたと、
その言葉のみを学校で教えたのが真実だそうです。

87: 2012/10/12(金) 12:15:03.31
>>80
明治政府が徹底して徳川暗黒史観を教え込んだんだよな。それが戦後も続いた。とんだ洗脳だぜ

81: 2012/09/28(金) 23:34:38.91
天領は実効で30%以下、諸藩は60%以上だな。薩摩や会津は70%は取ってるだろ

82: 2012/09/29(土) 00:35:04.52
諸藩は参勤交代で大量のムダ金をドブに捨てることを強要されてたから
(会津みたいに、百姓から容赦なく搾り上げた年貢で大枚はたいて大見得張って、
幕府に尻尾振って喜んでる藩も多かっただろうが)、
天領よりも諸藩のほうが武士の生活が豪勢だったわけでもないだろう。

いずれにせよ、北朝鮮の将軍様一族並みの特権階級であったことに変わりはない。

83: 2012/09/29(土) 00:45:48.74
>>82
天領の武士ってどこの武士だよw

84: 2012/09/29(土) 07:59:34.65
1721年→1846年の人口
周防66%増
薩摩62%増
陸奥18%減

東北11%減
関東13%減
中部14%増
近畿6%減
中国21%増
四国27%増
九州14%増

日本史再発見 理系の視点から(朝日選書)

85: 2012/09/30(日) 17:40:43.33
天明・天保の飢饉があったので関東と奥羽は大打撃を受けたのは確かだな。
関東奥羽の開発で18世紀の前半までは高度経済成長だけど、その後が頭打ちなので
近畿がなぜ減ってるのかは知らないが。19世紀は気象的に西日本は比較的生産力をキープできたはず

86: 2012/10/01(月) 01:01:03.52
司馬の家康は過大過少の前にまずキャラが違いすぎる
温厚な長者を装おうとしても生来の(祖父や父譲りの)癇癪玉みたいな性格が
終生直らなかったという家康が
なぜか感情の起伏のない古狸にw

90: 2012/10/12(金) 15:44:44.15
>>86
司馬は、忠輝の説明の際に、徳川の血の中に時折現れる狂気の気質、
みたいなこと書いてて家康にもその気があったことに触れているよ
特に狂気が表に出すぎたのが忠輝とか忠直だが

93: 2012/10/12(金) 20:54:53.26
>>90
殺戮マシーンの両巨頭・信長、秀吉に比べればカワイイもんだろ。

102: 2012/10/15(月) 18:29:40.39
>>93
織田・豊臣で天下統一がなされてて家康はあとは
豊臣秀頼一人を殺せば天下が取れる状態だったからだろ

家康も若い頃はかなりの人殺してるし息子と正室も殺してる
戦国大名数あれど正室殺したのは家康一人だけ
(正室殺しは信長の命令じゃないからw)

88: 2012/10/12(金) 14:03:47.05
こいつのせいで日本が100年は遅れたからな
幕末、明治になって一気にそのつけがきた

89: 2012/10/12(金) 14:39:33.91
家康を人格者だとか徳川が神というほうがとんだ洗脳だぜ

92: 2012/10/12(金) 18:42:43.71
>>89
徳川は神ですが何か?

91: 2012/10/12(金) 18:42:10.08
30年前の歴史教科書を見ると、百姓は生かさぬように殺さぬようにとか、
慶安のお触書とか、とにかく徳川が百姓をいびってたことを示す怪文書は何でも教科書に載せていた。

中国共産党も顔負けの捏造教育

94: 2012/10/12(金) 22:58:07.28
徳川幕府は、その愚民政策で日本を貶めたよな。
あの鎖国・農本主義政策への転換がなければ、絶対主義王政が花開き、
早期に西欧列強に伍して世界を主導、あの昭和の悪夢もなければ、明るい文化が育ち、
今頃は中国・南北朝鮮なんて存在せず、北方領土問題も起こらず、亜細亜に冨み榮え、強い平和な大国が出来ていた。

それと、主に豊臣政権時代の歴史を捏造、日本人の歴史知識を大きく歪めたことは万死に値する。
豊臣家康・羽柴秀忠と名乗らされ、武家家格制度の下、秀吉の完璧な統治・支配に服していたのに、
それを曲げて伝えよった。

95: 2012/10/13(土) 16:25:12.72
>>94
逆だね。豊臣政権が続いていたらその後の明清交代で確実にちょっかいを出して清と対立関係に入る。
明からたきつけられるから間違いない。江戸幕府ほど厳しく内政不干渉に徹することが出来ない。

あと何より、江戸幕府は軍事力で豊臣政権を滅ぼし、関東に拠点を置いたことで
初期に強力な大名の配置転換とインフラ投資を断行した。結果、関西資本が関東に流入し東日本が飛躍的に成長した
武士が集住する大消費地・江戸が誕生したことで奥羽地方の生産が刺激され、波及効果で豊かになった。

豊臣政権の継続なら、東日本は東日本在地の大名のまま。ロシアの東漸に対して手を打てなかったに決まってる。

96: 2012/10/13(土) 16:29:54.31
それまで「内陸部の経済後進地帯」だった東日本に大量に資金をつぎ込み、国土の均衡ある発展を可能にし、
内需主導の成長を実現し、東から来る米国・ロシアと言う二大国と通商をするに適した国家を作り上げた

畿内から江戸に前線を進めた功績だけで徳川は偉大だよ
しかも最終的には国民負担率が3割を切るという超低税率国家を実現したわけだから

97: 2012/10/14(日) 15:59:18.12
江戸幕府の歴史捏造についてはどう?

99: 2012/10/14(日) 17:36:11.16
>>97
始祖家康の業績と豊臣政権からの簒奪過程については確かに捏造はあるが、事実は誤魔化せないから
「評価」で誤魔化してる部分が多く、それほどひどくはない。
水戸学なんて異物が誕生したのは江戸時代なればこそだろう。

100: 2012/10/14(日) 17:40:02.55
>>99
新井白石と松平定信は業績に詐称多し
両名の業績を信じるなかれ

98: 2012/10/14(日) 17:07:36.09
新井白石・松平定信への賛美は、ほとんど捏造の産物なので、
「清貧や経済萎縮こそ日本を精強へ立ち直らせる」式の妄想を現在でも生んでいるこの両名は、ゴミ箱に捨てたほうが良い。

他は、綱吉は財政を立て直していた、とか萩原重秀(方向は正しいがちょっとインフレしすぎ)・田沼意次(この人は功罪あり)とか、
新井白石(天皇礼賛以外はデフレ強権でむしろ悪政)・松平定信(農村福祉以外は悪政だらけ)より取り上げるべき人間が存在する。

101: 2012/10/15(月) 18:25:21.42
松平定信は幕府の老中首座・将軍輔佐に就く前
白河藩主だった天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、
定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、
さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、
白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。
特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、
これは異例のことと言ってもよい。

103: 2012/10/15(月) 18:41:40.92
>>101
実際には将軍家の血筋であることを利用して
強引に米を買い占めたからであってそのせいで諸大名から顰蹙買ってますな

104: 2012/10/15(月) 20:34:05.89
そう。
当時米の買い占めは、東北諸藩への災害対策のため禁止されていた。
これを破って、飢餓を撒き散らしたのが松平定信だった。

105: 2012/10/15(月) 22:05:16.13
東北は典型的なモノカルチャー経済だったんだな
江戸時代から戦前は需要の高い米
戦後は労働力を関東へ供給
宗主国が植民地に対してやる事のド典型だ

106: 2012/10/15(月) 22:26:49.99
東北地域は植民地というよりは、薩摩が導入したサツマイモのような飢饉対策作物を
稲作増産の為に藩が禁止しちゃったから、飢饉への対処能力が年々低下して人口も減ることになった。
ジャガイモ? お助け芋とかいう名前で入ってきつつあったんですけど、藩が・・・・・・

107: 2012/10/16(火) 21:43:03.88
お前、薩摩の調所の債務破棄と奄美琉球収奪なんてまともな藩のすることじゃないぞ。
薩摩は偉大だけど、毛が逆立つくらい恐ろしいことやってるんだから

それと仙台や南部、会津は酷かったけど、庄内みたいに北前船が入る日本海側はかなり豊かだな。

108: 2012/10/16(火) 21:46:31.82
南部も、米作や表高に拘らなければ餓死者は少なかっただろう。あれは人災。

109: 2012/10/17(水) 09:20:34.93
家康は偉大。司馬遼太郎が何と言おうと歴ゲーの能力値で世界中の人間が家康の偉大さを知っている

110: 2012/10/18(木) 00:07:17.02
真田の草の者があと一歩で家康を仕留めていた。
日本の歴史にとって、これほど惜しいことはない。

111: 2012/10/18(木) 07:22:15.26
あと一歩で命を奪われそうになったのに、真田家を取り潰さなかった徳川はやっぱり偉大だな

113: 2012/10/20(土) 04:37:01.39
戦争がないのがそんなに良いのなら平安貴族は世界を統べる資格があるよ

116: 2012/10/21(日) 03:18:24.99
>>113
平安時代は奥羽、坂東や西海で戦争が頻発してるじゃないか
江戸時代には一揆や打ちこわしにすら作法があった

114: 2012/10/20(土) 13:10:24.61
↑じゃあ、今から内戦中の中東かアフリカへ移住してみろよ

115: 2012/10/20(土) 16:07:23.90
1807年 4月 丁卯事件択捉島 ナイホでロシアが上陸し会所を襲撃・略奪、
で択捉島警備の南部藩・津軽藩を 敗走させ、南部藩・津軽藩の6人が捕虜になる

戦争では無いが一方的にやられてたりはしてたみたいだな。

116: 2012/10/21(日) 03:18:24.99
>>115
それには後日談があり、日本は4年後にディアナ号をひっ捕らえてロシア側の釈明を引き出している。
ゴローニン事件ね。最上徳内が得撫島まで探査を終えたのがその事件のわずか20年前のことだよ
入植が本格化したのは、さらに遅れてクナシリメナシの反乱の鎮圧後

117: 2012/10/21(日) 06:02:36.05
江戸時代の一揆で徳川軍が一村皆殺しにした
生瀬一揆に作法があったとは思えないが

118: 2012/10/21(日) 17:49:52.17
ああ、江戸初期は普通にあるよ。喧嘩停止を徹底させるために当事者全員を磔刑にするとか秀吉もやってるから
しかし島原の乱・慶安の変以降は一揆は作法を守り、幕府は形式的には処罰しながら柔軟に対処する方針に転じた
その最たる例は天保義民事件の庄内藩だな。

119: 2012/10/29(月) 13:32:29.36
欧米は日本より歴史が短いから、「欧米が戦争に明け暮れていた同じ頃、
日本の武家政権は長年戦がなく安定していた」と称賛される。
だけど、日本の長い歴史の中の江戸時代って、武家政権の一番最後で最大の成熟期なんだよね。
鎌倉・室町・織豊と、過去の武家政権を振り返り、同じ失敗を二度と起こすまいと
雁字絡めに規則や法律で縛った上での安定政権だったわけで

133: 2012/11/08(木) 16:53:25.51
>>119
規則でがんじがらめって、じゃあその前の時代はどこがよかったんだい。

江戸時代の凄さは、暴力のコントロール。
もっとも暴虐な連中に自由を与えなかったから達成した繁栄。

120: 2012/10/30(火) 04:24:19.76
いや、江戸時代はたとえば事件を内済に委ねる割合が高い
たとえば窃盗程度の犯罪だったら役人が裁かず、村落共同体の仕置に委ねる
だから現代風にいう治安警備担当の公務員が極端に少なかった

規則でがんじがらめと言うのはまったく実態と異なるな

121: 2012/10/30(火) 12:07:18.97
奉行所の与力に、「金を出して頼めば、斬られた首もつながる」
つまり賄賂で、どうにでもなると言われていた。

むろん江戸時代には賄賂は悪い事ではなかった。
おおらかな時代だった。

122: 2012/10/31(水) 03:44:07.85
山岡荘八読んでバランス取ればいい

145: 2012/11/20(火) 18:41:54.81
>>122
山岡は山岡で史実とかけ離れてて
バランスますます悪くなるよw

123: 2012/10/31(水) 06:38:12.24
厳しい法定刑が実際の運用で柔軟になり得たのはその通りだが
賄賂は少ない。それ時代劇のイメージw

124: 2012/11/02(金) 07:21:08.06
山本周五郎のながい坂って、家康を意識してるんだよな。

125: 2012/11/03(土) 02:54:35.39
シュリーマンが荷物改めを警戒して武士に袖の下を渡そうとしたら、役人が笑いながら断って
ざっと見せてくれればいいんだよと応対したんだね。
武士から民間人に至るまで、掛け値や心づけの習慣がまったくないので驚いた

126: 2012/11/05(月) 09:45:33.45
明治時代ですら家康人気は三傑でずば抜けていた
司馬の家康像は大阪人の私怨

129: 2012/11/05(月) 18:29:39.47
>>126
そんなデータどこにあるんだw

127: 2012/11/05(月) 11:43:29.00
人気なんてどうやって調べたwまあ認知度は1番かもな

128: 2012/11/05(月) 13:57:20.51
上司が信長、部下が秀吉、父親が家康の人生だったらちょっと嫌かも

130: 2012/11/05(月) 19:29:53.16
東洋の歴史上の人物では、秀吉、チンギスハン、家康の順番に人気があったらしいね。
西郷隆盛が4位。チンギスハンが2位と言うのは面白いなw

131: 2012/11/06(火) 18:23:56.14
家康が偉大すぎて呼び捨てにするのがこわい
権現様と呼ぶことにする

135: 2012/11/09(金) 10:45:53.10
大阪の人って、過去に堺市が大野治胤に焼き討ちされた事実もあるのに、
それでもアンチ徳川なのかな。

136: 2012/11/09(金) 16:20:49.51
>>135
大阪夏の陣では大阪の町民が徳川方に略奪・暴行・殺人・人さらいなど
堺より酷い目に合ってるからね。

137: 2012/11/09(金) 23:50:01.08
>>136
実際そんな具体的事象より、単純に大阪から首都機能を
奪われたのが癪に触るだけだと思うけど。
別に歴史を知ってる人も知らない人も家康嫌いだからな。

太閤好きの家康嫌いって生まれた時から刷り込まれるから、
どんなに歴史を学んでも「嫌い」って視点からなかなか抜けられない。
「嫌い」が先にたてば、悪いところが目に付くし、忘れられなくなる。

司馬の覇王の家のあとがきなんか、まさにそういう心情が現れてるように思うよ。

140: 2012/11/10(土) 06:22:52.31
>>137
頼朝は尾張人の流人、伊勢宗瑞は備中人の侵略者、家康は三河人の侵略者
でも東京人や静岡人は誰も文句言わないじゃん
なんで大阪だけそうなるんだよ

138: 2012/11/10(土) 00:45:47.19
江戸時代を通じて大阪はアンチ江戸だが、
現実には太閤の大阪を滅ぼされて、それからは江戸幕府の物流集中策の中で大阪は発展する。
江戸時代の大阪は、江戸幕府のおかげで育った街なんだよ。

しかし感情は別。
特に江戸中期以降は、下り物に代表される産業技術先進地域としての座を江戸が発展することで脅かされるし、
歌舞伎役者も落語家も江戸下りをして帰って来ない。
絵画も尾形光琳等の安土桃山から、浮世絵や読本出版物は江戸の産業となる。癪に障ることが多かった。

139: 2012/11/10(土) 02:46:18.52
それは司馬の無知だよ。慶喜が鳥羽伏見の前後で政権についてたらたぶん上方に政権を持ってきた。
その場合は大阪が政治の中心地になってた可能性がある。
新政府が勝ったからこそ江戸に移駐する必要があったわけでな。

141: 2012/11/10(土) 15:10:14.72
結局は特権意識だろ。たぶん大坂が京から遠く離れてたらそんな意識持たなかったと思われる。
圧倒的に流入人口、新参人口のほうが多い東京は、統治の実質さえ担保されるなら名目はどうでもいいと考える。

142: 2012/11/12(月) 23:15:10.14
兵庫開港が遅れまくったから、横浜中心で対外貿易は動いてたしな

東京に来る以外ねえわ

143: 2012/11/12(月) 23:23:19.44
生活スタイルも江戸市民は堅実、大坂市民は華美と言われた。
江戸市民の気前の良さと言うのは、江戸の地元資本家を讃える創作の可能性が高く、
実際はきわめて勤倹貯蓄型だったらしい。

144: 2012/11/16(金) 01:35:33.26
慶喜政権なら
京=政治
大阪=外交
横浜・江戸=天領の首都と外港
長崎=西南諸藩の貿易港
みたいな形で、面白い日本の発展が見られたかもね。
ドイツ帝国のプロイセンとバイエルンみたいに。

江戸は徳川家の官僚群が統治可能だし、徳川家や東国諸藩は安心して大阪に詰められる。

146: 2012/12/02(日) 07:25:27.49
関ヶ原も大坂の陣も正当性があるのは家康側だと史料で証明されたし
そろそろ世間もアンチ徳川史観から脱却して欲しいよね。

148: 2012/12/03(月) 16:46:49.80
>>146
何の史料でw

149: 2012/12/04(火) 08:53:31.67
>>148
もはや常識レベルだと思ってたんだが

150: 2012/12/04(火) 09:30:07.92
>>149
常識だというからにはたくさん一次史料があるんだよね。
正統性を証明できる一次史料の抜書きをしようよ。

163: 2013/01/09(水) 01:54:11.19
まずは>>146こそが正しいことを広めないと。
いい加減関ヶ原は西軍こそが悪辣だったことを認識させないと

147: 2012/12/03(月) 03:00:56.03
むしろ江戸東京礼賛が鼻につく場合があるのだが。
江戸中期以降の関東東北の停滞・衰退を日本の衰退と言い換えたり。

151: 2012/12/04(火) 15:12:15.87
徳川家康の評価が低いのは、彼自身というより徳川家光以降の「鎖国」「技術退化礼賛」が
江戸幕府自体の評判を落としている面が強い。

「江戸で技術退化なんて嘘だ、技術は進歩した平和な社会だったのだ」説の人は目が曇っている。
倹約令は財政好転が目的だったはずなのに、いつの間にか社会の倫理にされて社会全般に強要され、経済萎縮をもたらしただけだった。

倹約のためなら新技術や魅力のある商品は邪魔とされた。
1720年の老中からの命令では、食料、衣服、諸道具、書籍、菓子、玩具等あらゆるものに関して、新規の商品開発を行い、それを販売することを禁じた。

152: 2012/12/04(火) 19:37:46.14
別の司馬批判スレでも言われてたけど
個人としては珍奇な物に目のなく進取の気風に富む家康に
徳川幕府の保守性を時間を逆戻しして覆い被せてるのが司馬だよね

153: 2012/12/04(火) 20:18:23.36
まあ、積極財政に転じようとする安倍に
「質実剛健だか清貧武士道だか吹いて経済を萎縮させたのは保守の人々ですよね」と批判が飛んでくるのと同じ。

責任があるのは当人ではないが、前任者や後任の人間が悪いことをやると、彼らの悪行まで背負うことになる。

157: 2012/12/07(金) 16:59:51.94
>>153
「東洋では天変地異の責任まで背負わされます」
田沼意次・談

154: 2012/12/04(火) 22:54:10.30
徳川家康自身は
・家系名門愛好者
・歴史オタク
といった面があり、彼の定めた米本位制に基く幕藩体制も、彼の治世に関しては必要なものだった。

しかし死後神君とされ無謬とされていくと、貨幣経済の伸展や海外の技術発展に抵抗し日本を抑圧する悪魔のような存在として
後世の日本に圧し掛かってくることとなった。彼の評判は神君とされることで貶められたともいえる。

155: 2012/12/05(水) 16:27:29.62
大好きな唐頭の飾りだらけの派手な格好で若い旗本に
「武士は外見よりも中身だ」と説教した話で大笑いした
古参の家臣が「殿さんが一番、外見気にしとる」と突っ込んだと言う

156: 2012/12/07(金) 16:28:03.17
家康自身、自分を重厚な人間に見せようとしていたんだろうな
ただ同時代人の記録でミーハーなおっちょこちょいだとばらされてしまっているという

158: 2012/12/09(日) 09:28:20.76
徳川家康の頭には、日本の事より、ひたすら、徳川家の天下保持を
いかに継承、継続させるかなかった。
そのため、鎖国して日本人を矮小化させ、島国根性を日本人に植え付けてしまった。
織田信長、豊臣秀吉のように、海外進出政策を取り続けていれば、豪州大陸や
樺太はとっくに日本人の植民地となり、太平洋でアメリカと戦うようなことも
なかった。
要するに、家康は田舎の土豪のような、自家中心的な、視野の狭い男。
このような男が天下を取ったことは日本民族の悲劇。

159: 2012/12/09(日) 15:57:12.98
>>158が釣りなのか
スレのログすら読まないで書き込む真性馬鹿なのか
どっちか誰か教えて

160: 2012/12/24(月) 09:47:32.79
思い込みだね。

家康って、もともと武闘派系の人が、元老になってみたら内憂外患で
内政重視シフトを引いてるうちにイメージ変わっちゃったみたいな人だね。

161: 2012/12/26(水) 06:33:35.50
司馬遼太郎はさ、自分が崇拝してる秀吉と豊臣をマンセーする為なら、
脚色、嘘、完全なフィクションを意図的にわざとふんだんに盛り込むよね

地域性によって贔屓があるのは構わないんだけど、司馬が問題なのは、完全な史実とは違うフィクション小説にも関わらず、
随所に、意図的に事実であるかのようなミスリードを誘うように書いてる事
これは正直、不誠実だと思う

で、司馬史観に影響されてた歴史小説家までいるわけだし、
三英傑や歴史人物の評価って、そろそろ司馬史観から脱却するべきだと思うわ

まともな歴史研究者からは笑われてるんだろうけど、それでも、
特にニワカ歴史オタや一般人のイメージする三英傑や歴史人物の評価って、
司馬史観そのものでしょ

ぶっちゃけ、大阪の歴史好きで秀吉贔屓の人でも、まともな人は、
案外、司馬の事好きじゃないよね

164: 2013/01/09(水) 10:38:18.50
>>161
「城塞」なんか読むと司馬は豊臣贔屓じゃないんだけどねー。
ただ、女は可愛くいつも男にしなだれかかって抱かれているのを無上の喜びとすべきで
淀殿のように表に出てくる女は嫌いな人だというのは思うけど。

家康の小説書く人は家康だけが聖人君子で家康以外は悪人設定であることが多いけど、
そういうのは構わないんだ?
小説読んで史実と勘違いするのってあなたみたいな人のことを言うの?

166: 2013/01/09(水) 21:59:46.40
>>164
>小説読んで史実と勘違いするのってあなたみたいな人のことを言うの?
主観と客観の区別の付かない馬鹿の典型乙

169: 2013/01/12(土) 20:16:51.26
>>164
「城塞」は、豊臣方は牢人諸将を上手く糾合すれば無尽蔵の財力をもって充分に徳川に対抗できた
しかし秀頼と淀殿の二元体制や、籠城諸将の裏切り、さらに譜代の旗本が腐ってたから負けたと言って悔しがってるだけで、
実態を認識していないもはなはだしいよ。

実際は牢人諸将の発言権が高まって城内が流される形になり、自滅を早めているし、
冬の陣ではオランダ船からの砲撃には大きな心理的効果があり、和睦に応じざるを得なかったのは大坂方
青木一重のように徳川-豊臣の停戦交渉に尽力した人間は裏切り者呼ばわりされてるが、実際には板挟みにあって城を出ている
夏の陣の毛利、真田らの突出も一刻ほどで終わっており、到底、情勢を覆すに至っていない

170: 2013/01/12(土) 20:20:40.57
>>169

167 も言ってるけど、司馬は自分の思い込みを投影して書き始めるので、
途中からその人物が自分の思い通りじゃなくて嫌いになると放り出してしまうんだよね。
大坂の陣の大坂方の扱い-特に秀頼や大野治長など-には、もろにそれが出てると思う。

172: 2013/01/13(日) 17:42:24.78
>>169>>170
「城塞」は知将牢人による一発逆転のチャンスの浪漫を描いた物語で
豊臣の財力をもってすれば家康と豊臣は互角の戦いだったなんてどこにも書いてない
どこをどうよんでも圧倒的家康有利の中にあって豊臣方牢人の知略が見せ場
何を読んでいるんだお前はw

175: 2013/01/16(水) 02:30:16.48
>>172
秀頼が勝頼くらいだったら徳川と互角の戦いをさせてやれたなどと小幡景憲に言わせている
物語の開始当初は対徳川強硬派に属する大野治長マンセー、
牢人諸将の入城シーンの前は前田を叩きまくり毛利、島津、福島などにガッツリ期待
そいつらが結局大坂を見捨てると今度は牢人諸将をめちゃめちゃに過大評価
大砲ぶち込まれて数週間で講和に至った冬の陣を、徳川方が軍事的に劣勢だったのに淀殿の弱気だったかのように描く
夏の陣では長宗我部勢らが戦闘で大打撃を被った事実に触れてない
など、明らかに「問題は戦略だった」と思わせるような書き方をしている

さらに「軍師二人」と言う短編では真田、後藤の対立-広くは牢人諸将の統制困難-を描いているが城塞ではまったく触れられていない
牢人諸将が一致団結して整然と行動したようにストーリーを作っている

司馬は長編を描くときは、その前に短編でスケッチすることが多い
しかし長編になった時は短編で認識していた主人公サイドの問題点を全て捨象してひたすら好き嫌いで描く

165: 2013/01/09(水) 19:33:21.57
勝海舟の過小評価も異常だな

167: 2013/01/11(金) 18:24:09.62
「坂の上の雲」とか「翔ぶが如く」では、最初の方と最後の方で人物評価がひっくり返っている例があったな。
たとえば桐野利秋、篠原国幹らは最初の方では持ち上げられていたけど、最後の方では頭の空っぽな愚人扱い。

江藤新平に至っては、「歳月」では悲劇的な先駆者として描かれているが、「明治という国家」では名前すらスルー。

調べるうちに評価が変わるのは仕方ないけど、その都度、根拠も示さず断定的に語られるから、司馬小説慣れしていないと鵜呑みにしてしまうね。

173: 2013/01/14(月) 00:03:17.21
>>167
胡蝶の夢ではラストになって主人公が
途中から登場した関寛斎に変わった気がする

171: 2013/01/13(日) 10:06:13.37
鎖国とかアホやろ。

174: 2013/01/15(火) 13:34:04.52
城塞は淀君の人物造形が講談のまんまでワロタ
他のキャラが正誤はともかく一応史料などを引き合いにした「歴史小説」らしいものに
なってるだけに一際目立つ

176: 2013/01/16(水) 11:39:20.26
「城塞」は大野や淀といった愚物が家康という巨人に翻弄され追いつめられ、
生き残る道さえ許されないという大筋。浪人衆のあれこれはただの彩りにすぎない。

司馬はその意味でも家康を決して過小評価していないし、当代随一の政治家であると認めてる。
ただ、とにかく嫌いなんだな、という個人的感情だけはモリモリ伝わってくるな。

180: 2013/01/17(木) 03:38:46.11
>>176
淀殿や大野と言う「愚物」に大坂の敗因を矮小化させて、新参牢人諸将に丸投げすればいい勝負になった
などと言う珍説に傾いてるのが司馬なんだよ。現実には牢人諸将の暴走で大坂と徳川の和議への努力はぶっ壊されている
青木一重を徳川の回し者のように描いてるが、彼は懸命になって冬の陣の後に豊家安泰のための努力をして拘束されてるんだぜ

大坂の実力を知ったうえで家の安泰を図ろうとするやつは「裏切り者」
身の程もわきまえず城からの退去を拒否して暴走した牢人諸将(諸将の間でも対立あり)を過大評価
それが司馬だよ

181: 2013/01/17(木) 04:23:30.83
>>180
読み物だから・・
雪村かっけーは講談のまんまや

182: 2013/01/17(木) 11:12:47.22
>>180
一発逆転のチャンスを書いた小説だからそうなるだろ。
真田太平記だって一発逆転を狙うからそういう書き方になる。
何、お前は「何をどうしたって馬鹿牢人たちに勝ち目はなかった、
黙って長いものに巻かれて家康様に従ってればいいのに牢人たち大馬鹿」
という小説が読みたいの?
そんな小説売れないわw

189: 2013/01/17(木) 19:24:25.83
>>182
司馬って小説を書いてる間に認識が変わることが多い。
典型的なのが翔ぶが如く。思い入れの対象だった桐野や篠原がただの馬鹿だったことを隠しきれなくなると、
どうでもいいやこんな馬鹿と言う感じで放り投げて終わる。

城塞もそういうパターンだよ。何とか大坂が徳川に勝てるチャンスがあったかのように書いていこうとして、
最初は大野、次に島津や毛利、そして牢人諸将と次々に思い入れの対象を変えてるが、最後に「もともと無理だった」
と言う結論に達して、家康のアホ―!みたいなことを言って終わってるw

191: 2013/01/17(木) 20:11:47.76
>>189
そうか?
家康は虎視眈々と豊臣の首を絞めていって余念がない。
最期に家康のアホー!みたいなことは書いてない。
主人公は最初から牢人の一人でぶれていない。
大野に島津に毛利と次々主人公を変えているわけでもなし。

194: 2013/01/23(水) 11:33:27.12
>>191
だからその観察者である小幡景憲の認識が変化してるって。
ちなみに小幡景憲は物語を回す役であって「主人公」ではない

さらに家康が豊家の首を徐々に絞めていったというのが、司馬の完全なる錯覚
家康は豊家に振り回された側
事実は
・豊家の内部分裂が全国的内乱に発展してしまい、外戚であった家康が取り鎮める
・この時点で、お家騒動も自力で鎮められない豊家には天下様である資格がないことが明瞭になる
・家康自身は孫娘を輿入れさせて縁戚関係を結び、主家のテコ入れとともに秀頼との会見を図る
・豊家が会見に応じない。その後色んな人間が両家の関係を仲介しようとするがそれにも応じない
・さらに牢人を入城させ、前田以下恩顧の諸大名を誘うなど関東に対抗する姿勢を先鋭化させる=内乱を起こそうとした側は豊臣家
・しびれを切らせた家康、方広寺鐘銘事件で諱を勝手に分断した件から大坂を呼び出し、最終的な関係正常化を模索
 ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
・牢人の軍事力=大阪城=豊家の主 の結合が内乱の原因となっていると認識して、そのいずれかを解除するよう要求
 ちなみに、現実的にもこの時点で城出るか、証人出して対徳川家和平を実現させないと秀頼が牢人に担ぎ上げられてしまう
・アフォな対徳川強硬派がこの条件を持ち帰った手筋の片桐暗殺未遂事件を起こし、片桐が退去
 ちなみに、これは大坂方の対徳川外交の断交を意味する行為

どう見ても大坂が牢人引き入れた結果、先軍政治化していったのが両家の戦争の原因
それでも家康は講和条件として移封を条件に穏便決着の余地を残している

177: 2013/01/16(水) 16:48:16.36
「太閤記」で司馬は家康は繰り返し律義で誠実な人だと書いてるぞ。
だから秀吉は家康と敵対することを嘆き、なんとか和睦したいと願った。
寡黙で無口な家康は司馬的には主人公とするほどの魅力はなかったんだろうが
あれを読むとむしろ司馬は家康を過大評価してる気がするよ
本当に家康は信長に嫡男を殺されてもなお信長に忠誠を尽くす悲劇の被害者なのかと

178: 2013/01/16(水) 22:08:02.59
>>177
>寡黙で無口な家康
そこがもう認識の間違い
大一番の戦になると居ても立ってもいられず
馬の口取りから旗持ち太刀持ちまで手当たり次第に話かける落ち着きのないオッサンだw

183: 2013/01/17(木) 11:17:50.38
>>178
小説だから色づけはされるわな。
落ち着きのない家康wにしようが無口な家康にしようが作家の自由だと思うが。
家康が爪をかむ癖がありかなりの癇癪持ちだった、だから激昂しそうになると
爪を噛んで黙って耐えた、って結構最近出てきた説だろ。
最新の研究成果を持って司馬はなぜ40年前にこう書かなかったんだ、
と馬鹿にするのもどうかと思うぞ。

186: 2013/01/17(木) 12:55:38.61
>>183
家康の情緒不安定というか癇癖なんて三河物語はともかく
当時の日記や書簡で普通に見受けられる事だと思うが
皮肉な事に徳川幕府が家康の当時の感覚では大人物らしくない面を糊塗として
作り上げた虚像の家康像を司馬は踏襲してるんだよね
描写が正反対なだけでその点では山岡と同じという

188: 2013/01/17(木) 14:30:37.43
>>183
178は司馬の小説の表現の話でなく一般認識の話だろ

190: 2013/01/17(木) 19:29:11.97
>>183
司馬も家康が戦場ですぐ頭に血が上るタイプなのはちゃんと認識してるよ。

179: 2013/01/17(木) 03:35:31.59
それが家康にとっては平常運転なのに、焦ってた証拠だとか何とか書くのが司馬

184: 2013/01/17(木) 12:51:12.92
>>179
戦況が少しでも不利になると
家康「腹を切るっ!、いや、敵陣に突っ込んで果ててやる!」
死産家臣「殿が錯乱した、どうしよう」
古参家臣「またはじまった……」
それが徳川家の日常風景w

185: 2013/01/17(木) 12:52:04.12
新参家臣、なw

187: 2013/01/17(木) 14:28:53.40
>徳川幕府が家康の当時の感覚では大人物らしくない面を糊塗として
作り上げた虚像の家康像

家康「貿易楽しーなー」
アダムス&ヨーステン「でしょ、でしょ」

百年後

幕閣「鎖国は神君様のご遺訓じゃ」
家康(霊)「おいおい」

192: 2013/01/18(金) 22:17:51.36
城塞は、タイトル通り秀吉があまりに堅固な城塞を残したことが淀殿、秀頼母子を勘違いさせ
身を滅ぼさせた、というのが主題の小説

193: 2013/01/19(土) 18:33:34.89
僕は徳川家康の小さいころの名前を竹千代といいます。

ある日、竹千代と爺が川沿いを歩いていると子供たちが石合戦をしていました。
爺は人数が多いほうが勝つと言いました。
竹千代は少なくないほうが勝つと言いました。
竹千代の言うとおり少なくないほうが勝ちました。

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中学時代の同級生の読書感想文から引用。
冒頭の「僕は」は明らかに不要だが読者を引き付ける劇的な手法。
「多いほう」と「少なくないほう」の使用法は未だに謎。

195: 2013/01/23(水) 11:39:27.42
司馬以外は大阪の陣の原因が、「大坂方の」対徳川強硬姿勢の激化から始まっていることを認識している
開幕から10年経っても秀頼と家康の会見は曖昧な位置づけの下でしか行われてない

要はパックス・トクガワナに協力する意思がないと言うこと
諸大名が大坂方に呼応しなかったことでも明瞭だが、大坂は既に一地方政権でしかない

197: 2013/01/24(木) 15:10:58.66
>>195
さすがにそれは豊臣家の過小評価だわ

徳川が幕府を開いてから13年経っても尚、豊臣は
家康・秀忠が大軍を率いて攻め上り
わずか8歳の遺児さえ血祭りに上げ完全断絶させなければならなかった相手
秀吉の墓すら破壊して存在を否定しなければならなかった相手

ただの地方大名ならそれはないわ