1: 2012/01/26(木) 18:43:06.66
鎌倉~江戸時代と主に歴史は武家によって作られました。
歴史に疎い人間の中では朝廷は無い物として認識されていますが
厳然として存在した公家、朝廷について何でも語り合いましょう^^


引用元: ・武家政権時代の公家、朝廷について語るスレ

2: 2012/01/26(木) 22:36:42.57
室町末期はさておき、安土桃山あたりから、公家はどうやって銭儲けてたんだろうか?

天皇とか、その辺はさておき、下級公家なんて、収入ないでしょ?

3: 2012/01/26(木) 22:47:03.97
>>2
書や和歌、管弦の家本としての教授や免状発行だね。対象は大名。

4: 2012/01/27(金) 01:57:54.08
>>3
暮らしていけるほどの銭をくれたんですかね?
受取証みたいのあったら、見てみたいんですが。

でもって、下っ端の公家って、そんなのを発行する権利あったのかもようわかりません。

5: 2012/01/27(金) 11:48:41.92
そりゃあ大内とかは一流しか相手にしないでしょうけど、
受け手側もピンキリだから、三流どころにも需要はあったのでは?
都ではまがい物として通用しないかもしれないけど、
田舎では都の公家ってだけで、それなりの権威では。

6: 2012/01/28(土) 01:47:42.41
>>5
あー、それはそうですね。なるほど、納得。
そういや、田舎豪族に嫁ぐ公家娘も多かったんですもんね。
戦国の混乱期に、なくなっちゃった公家なんかもあったんでしょうし。

にしても、徳川時代に入ってからの、下っ端公家の生活とか、大変だったのだろうなー。
岩倉具視の話を聞くだけで、「おおう、ヤクザの末端じゃん」という感じが……。

7: 2012/01/28(土) 08:44:43.34
中には偽公家とかに騙された田舎小名も居たんじゃないの。
事務とるくらいの公家の家臣なら主人のまねくらいできるでしょ。
下男の類ならともかく。
退職金代わりに主人の衣装とか一式盗み出して田舎に逃げれば、
立派な偽公家のできあがり。
たぶんそんなのが居たと思うんだよね。
で、地方の旧家の蔵の中にその連中が書いたような書き付けとか
まだ眠ってたりして。

8: 2012/02/04(土) 13:02:50.93
家業があった公家は上でも出てるような稼ぎはあったからまあ良かったね。
有名どころだと蹴鞠の飛鳥井家はいろんな大名のところに出張蹴鞠大会に赴いてがっつり稼いでる。

珍しいところでは久我家の按摩の免許とか五条家の横綱免許とか、
家業とは関係のない特権を持ってる家もあった。

応仁の乱以降は荘園を奪われて土地で生活はできなくなったから
それこそ公家だからこそ価値がある芸能や儀礼などで生きてたわけだ。

江戸時代に入ると下向して云々ということはなくなるから大名と姻戚関係を築いて上納金なんてのが一般的か。
禄高はたかが知れてるし、五摂家や一部の高級公卿以外はなかなか大変になってくる。
なもんで風俗店の呼び込みのバイトしたり、部屋貸ししたり、中には盗人になるような公卿もいた。一部だけど。

9: 2012/02/04(土) 18:45:45.94
蔵米取りの新家公家なんぞボロい長屋屋敷で下級武士並みの生活だったろうな。
五摂家の諸大夫・侍の方が地下だけどいい生活できていただろう・・・。

10: 2012/02/04(土) 19:10:17.28
切米取りの下層公家なんて100石にも満たないのいるからね。
しかもそういう新家は副収入得られるような家業がない場合も多いしそりゃ大変だったろう。

11: 2012/02/04(土) 19:41:57.55
堂上になると体面があるから、下手な副業もできないし。
その上に体面維持にかかる費用も大変。
と言うわけで、それなりに金になる本業の余録や副業がある地下は、
堂上になりたがらなかった家もあるとかどうとか。

12: 2012/02/04(土) 21:59:32.73
近衛家最強だね。縁戚の国持ち大大名や津軽家からの貢物、伊丹領からは
清酒でウハウハだろうし。そこらへんの貧乏旗本・大名よりよっぽど裕福。

13: 2012/02/04(土) 22:29:03.82
そりゃまあ貧乏旗本より貧乏な摂関家があってたまるかだろ

14: 2012/02/05(日) 03:35:11.42
内職をしていました。

15: 2012/02/05(日) 10:09:18.78
公家町絵図見ると九条や近衛などの御殿の広さに比べて30石平堂上のボロ屋敷の
狭さに笑ってしまう。
それにしても明治維新は日本を大きく前進させたけど、一方で旧来の城や寺や公家屋敷
など現代からみれば垂涎ものの建築物を破壊した。当時、後世に残る文化遺産として
保存しようという考えは皆無だったのかね?

16: 2012/02/05(日) 12:45:13.48
後世に残る文化遺産なんて考えが起きるのは時間が経たないと無理だろ
我々だってリアルタイムで生きている時はそのものの価値評価は難しい

明治時代ってのは旧時代の遺物=悪みたいな極端な考えもあったからね。
仰るとおり城郭や寺社でさえボコボコに破壊されたりただ当然で払い下げされたりしたわけだから
神社でさえ統廃合でかなり壊したからな

17: 2012/02/05(日) 12:47:18.76
ちなみに京都御苑に実際行くと分かるけど、地図上ではゴミクズみたいに見える公家屋敷も
実際はそこそこの敷地だったことが分かるよ。

もちろんかつての栄華やに比較したり、摂関家、市中の大店と比べたらそりゃ寂しいもんだけどさ。
摂関家は御所以外にも複数別邸持ってるしな。まあ別格だ。

18: 2012/02/05(日) 14:15:26.61
戦後復興期とか高度成長期とかバブルの頃に適当に作った手抜きビルでも、
何かの偶然で100年も残れば立派な文化遺産。
その時代に当たり前にあるものの価値は同時代人にはわからないよね。
って言うか時間が経過して当たり前でなくなって初めて価値が出る場合も多いか。

19: 2012/02/05(日) 14:18:37.12
姉歯マンションだって発覚せずに200年残ってたら、
その頃のドキュメントみたいなもので、
「見てください、実はこのように巧み設計されてるんですね」
「へー、さすが先人の知恵はすごいですねえ」
とか言われたりして。

20: 2012/02/05(日) 15:08:58.89
京都の三条通りは明治期のレンガ造りの建物が多いけど
あれこそ当時は文明開化の象徴として作ったものだから
当時は相当な違和感を感じた人も多かったと思うよ。

それが今やレトロな建築物群ってことで歴史的遺産になってるもんな。

ただ総じて言えるのは何でもかんでも時間が経てば価値が出るというより
その時代を反映していたり、その時代の技術の粋を活かしたものだったり
いずれにしても「良い物」じゃなきゃいくら古くてもさすがに価値は出んな。

千年くらい経てばうんこでも価値は出るが。

21: 2012/02/05(日) 23:49:40.69
しかしせめて宮家・摂家あたりの御殿をひとつでも残してくれてたらと思うと・・・。
冷泉家が残ったのが唯一の救いだが。
御苑内に九条家の茶室と庭園の一部は残っているね。

26: 2012/02/06(月) 10:52:06.47
>>21
閑院宮邸(京都御苑内)
有栖川宮邸(有栖館・平安女学院内)
桂宮邸(二条城本丸御殿)
有栖川宮邸と桂宮邸は移築されているけど
江戸時代の建物が残っている

22: 2012/02/06(月) 05:17:02.01
江戸時代の公家って何やってたんだろう。禁裏御料や公家領の統治は幕府がやってたし、具体的な政務があったわけじゃなさそうだし。

組織だから総務とか会計とかの仕事はあったのかな。

24: 2012/02/06(月) 10:29:31.73
>>22
毎日出仕してただろ
武家の世になったからと言って官位授与や年号取り決めは相変わらず
朝廷の仕事だった

あと、公家は和歌や琵琶などの「家元」になって副業で稼いでいた

23: 2012/02/06(月) 09:03:05.08
関白、武家伝奏、議奏など幕府と絡む役職はそれなりに忙しい

それ以外は交代で御所の勤番(夜勤あり)
あとは儀礼的な出勤

出勤がなければ家業に勤しむ。もしくは写本。
もちろん内職をする者もあり。

25: 2012/02/06(月) 10:35:10.47
あと全国各地の寺社伝奏というお役目もありますな。勅祭はもとより祭事には
勅使その他の差配の役目があった。
また参内はしなくても主従関係(門流)を結んでいる摂家への出仕や
宗家・縁家の葬祭法神事への参座もある。


28: 2012/02/06(月) 13:29:07.76
年号は武家が実質的に決めるようになっても、
年号決める儀式だけは朝廷でやっていた。
それでその儀式に伴い関係者にはなにがしかの対価があった。
ことに地下官人の場合は儀式の対価が収入のかなりの部分を占めたらしい。
役目によるから一概には言えないけど。

30: 2012/02/06(月) 14:04:14.22
>>28
年号をいつ武家が決めた?
江戸時代を通じて年号を決めたのは朝廷。
織田信長が改元を求めたことはあったが、
それでもどのような年号にするか、いつから改元するかは
朝廷の権限だった。

32: 2012/02/06(月) 15:10:34.47
江戸時代にこのままじゃ朝廷・公家はダメだって
武士の真似事した天皇いたよな
俺は嫌いじゃないぜ

39: 2012/02/06(月) 21:15:50.99
>>32
後光明天皇のこと?
京都所司代の板倉重宗の「あなた様をお止めできなければこの重宗
切腹せねばなりません」の諫言に対して
「未だ武士の切腹を見たことがない、見ていてやるうえ切腹せい」
って言った人?

33: 2012/02/06(月) 15:15:04.69
あと後柏原天皇の和歌が好き

35: 2012/02/06(月) 16:31:26.74
その示した3つの案を考えた学者が誰がと聞いてるんだよ
それも答えられないくせに偉そうなこと言うな

37: 2012/02/06(月) 18:04:14.03
その三つの案ってのは、ただの形式の場合もある。
決まってるけど、一応三つだして選んだことにする。
公家にとってもっとも大切なのは形式だから。
酷い時は同じ人物が、案を出して、自分で批評して、
これがよろしうございますと進上。
つまり一人二役なんてことになる。
衰亡期で人が居ないとそんな羽目になるけど、
それでも形式だけは外さない。
それしかすがるものがなかったんだな、その頃は。

38: 2012/02/06(月) 18:22:55.00
公家領って一村に複数の領主がいる入組だし、公家の家政機構が脆弱だから
年貢徴収や裁判権は京都町奉行や幕府代官に頼らざるを得なかった。
しかし軽微な事案は公家側で処理していたみたいだね。公家側の雑掌と庄屋間の
手紙などが古文書として多く残っている。

41: 2012/02/07(火) 02:32:03.25
改元が公家の専管事項だなんて都市伝説だよ。
室町期に足利義満が「洪徳」という年号を
ごり押ししてきて、「徳の字のついた年号が続き過ぎる」とか
「洪水になる」とか言って必死に公家衆が宥めたんだわ。

永徳-至徳 と来てその次に洪徳を希望した義満だった。

それで結局「嘉慶」になったのだが、義満は「洪徳」が
採用されなかったのを怒り、今度は改元をさせないという
サポタージュに出た。
南北朝合一後に定められた「応永」が35年の長きに渡るのはそのため。

44: 2012/02/08(水) 08:25:07.89
>>41
義満の死後も続いてるじゃないか>応永

42: 2012/02/07(火) 10:57:49.82
改元っていうと、江戸時代の改元の詔書を見たことがあるが、
改元に際して天下に大赦し・・とか老人には穀を給う・・とかおよそ朝廷の実権においては
なし得ない事柄が書いてあって、また同時に出される太政官符に至っては
名のみで実体のない官・省以下が記されていて、ちょっと感動ものだった。
大赦というと、これも形式的だが検非違使が罪人を赦すという儀式があるって
『幕末の宮廷』にあったな。

43: 2012/02/08(水) 04:01:05.54
>>42
それは全くの空文なの?
それとも幕府や藩がそれに合わせて減刑したり米を支給したりしたの?

45: 2012/02/08(水) 18:26:17.90
>>43
詔書はテンプレがあるからそれに沿って書かれているだけで
ほぼ空文かと。改元大赦は下橋敬長の述懐で検非違使が六角獄舎で
宣告のみ行うとある。
実際、改元を諸国に知らせるのは朝廷の詔書ではなくて幕府からだし。

46: 2012/02/09(木) 16:27:28.02
>>45
でも、獄は実際にあったんだ?
まさか牢屋まで空っぽだったのかな。それとも、幕府の牢屋で読んだのかな。

48: 2012/02/09(木) 17:54:21.52
確か犯人役の人が決まっていて、その人許す儀式をするんだとかどうとか。
役人でなくて町民だったような。
あくまで幕末頃の話で、いつからそんなことをやっていたのかはまあ不明だろうけど。
戦国末とかはそんな形式すらできなかっただろうし。

51: 2012/02/09(木) 18:20:05.41
>>48
有り難う。今で言うと神事みたいだね。
地鎮祭で鍬を入れるあれなんかも、今では実際の意味を完全に失ってるものね。

52: 2012/02/09(木) 18:22:25.58
>>48
有り難う。今で言うと神事みたいだね。
地鎮祭で鍬を入れるあれなんかも、今では実際の意味を完全に失ってるものね。

49: 2012/02/09(木) 18:08:10.02
その犯人役は「こうべ」とか言うらしい。
「頭を垂れる」の頭?

50: 2012/02/09(木) 18:15:19.63
幕末、堤家(30石蔵米)の家臣団・使用人

雑掌・用人・番頭・近習(奥勤小侍)・中番・下部
年寄・側・乳人・黒歯・白歯・茶間・仲居 など男女約15名・・・。

けっこうな人数だな。

53: 2012/02/09(木) 18:43:57.31
>>50
30石で、そこまで!?

62: 2012/02/13(月) 10:11:27.58
>>50の例はたぶんなにか別途収入があったんだろうな。
それとも家臣の大半は無給、あるいは持ち出し有りとか、
じゃなきゃあどう考えても生活できないよ幕末頃だと。
江戸時代初期ならまだあり得たのかな?それでも非常にきつそう。
もしかして、なにかの行事の時の臨時雇いも含めた人数かな?

54: 2012/02/09(木) 18:54:21.60
江戸時代の朝廷って敢えて現代に準えれば「神社」というイメージで良いのかな。
職掌は儀式(改元含む)ばかり。でも組織だから、総務とか会計とか人事とかは存在してる、みたいな。

55: 2012/02/09(木) 19:18:33.74
学会だよ。

56: 2012/02/10(金) 13:25:17.38
せんせい∩(´・ω・`)

江戸時代……というても広過ぎか。江戸末期段階で、公家ってどのくらいの家が
あったんでしょうか? 曖昧な聞き方なんですが、単位がよくわからない……。
んー、なんとか家みたいなの、なんですが。

岩倉具視が騒動起こしたのって、五百家騒動でしたっけ?

57: 2012/02/10(金) 13:58:48.36
堂上は130~140軒くらいだったかと。
地下は世襲じゃない下官人まで入れると1000人前後とかだったような。
家として固定してるのは300とかそのくらいだったかな。

58: 2012/02/10(金) 15:17:02.85
世襲の地下官人は士族になったんでしょ。

59: 2012/02/10(金) 19:35:45.63
世襲かどうかの定義は難しいみたいだね。
世襲ってことになってる家でも、実際は株化して養子の場合もあるし、
下官人でも本当の親子や兄弟の例もあるらしい。
なんか一応子が継ぐけどすぐに辞めて、他人が相続ってのが連続してる役目もある。
それで世襲かどうかの区切りがつけにくかったのか、
下橋翁の話では幕末の時にたまたま史生等で任官してた連中は
士族になれたとかどうとか書いてあったような。
記憶違いだったらすまん。
下官人にも入らないんじゃないかとも思われる看督長・使庁なんかは、
士族になれたんだろうか?

60: 2012/02/10(金) 19:40:04.47
幕末の宮廷は、たぶん19世紀の宮廷についてはほぼ正しいんだろうな。
もちろん多少の記憶違い勘違いはあるにしても。
伝聞にしてもある程度正確なのは祖父の頃までだろうから。
18世紀前半以前とかは地道に調べるしかないんだろう。
古代史と違ってまだ画期的新史料が出てくる可能性は有るしね。

64: 2012/02/13(月) 12:58:25.57
女中は行儀見習いだから無給って場合もあったらしい。
逆に実家から付け届けとかもあったりとか。
有給でも男よりは安く上がるし、食い扶持も少ない。
だから江戸時代も進んでくるとどこの家でも男を減らして、
女を増やす傾向があったそうだ。
幕臣とか陪臣の話だけど、公家も傾向としては同じかな?
平和な時代なら、儀礼上どうしても必要な役目以外の、
単に家政で必要な人手は大概女で間に合うもんな。

65: 2012/02/14(火) 00:22:00.64
上野氏の論文によると家臣の給米だけで35石らしい。
分賜米のおかげで家臣を新規雇用したのか・・・というと
近習以下侍は譜代家臣もいるようだ。一代抱えもいてこれは新規かもしれんが
そこまで詳しくは書いていない。

66: 2012/02/17(金) 10:49:39.53
従五位程度の旗本(禁裏附)の部屋に呼び出されて罷り出る
従二位権大納言級の武家伝奏・・・。

67: 2012/02/19(日) 00:21:54.56
明治以降は立場逆転だな。旗本は威張っていても石高が高くても
士族。堂上は石高少なくても、30石でも子爵以上の華族さま。

68: 2012/02/19(日) 20:04:07.12
1851年の二条家諸大夫は筆頭が27両強・あとはほとんどが15両強、
子息で禄がないのは除き、なぜか一人だけ8両強。侍からの昇格組かも。
侍とか用人とかは、9両とか8両程度以下。
かならずしも家内の身分と禄の高低は連動してないようだ。
身分ごとに平均値はちゃんと身分順になってるようだけど。

78: 2012/03/03(土) 11:39:19.66
>>68
へえ、そうだったんですか。面白い。
何ていう本(論文?)に書いてありますかね?

79: 2012/03/03(土) 12:09:25.23
>>78
「近世の身分的周縁」とかってシリーズの「朝廷を取り巻く人々」とか言う題名の本に、
収録されていてた摂家家臣について書かれたもの。
題名はうろ覚えなので間違ってるかもしれない。

80: 2012/03/03(土) 21:16:02.15
>>79
78です。ありがとう御座います。
来週学校に行って図書館にあるか調べてみます。

81: 2012/03/03(土) 22:49:17.03
>>79 >>80

正しくは吉川弘文館 『身分的周縁と近世社会8 朝廷をとりまく人びと』

近世朝廷研究の第一人者、高埜利彦氏と高埜氏の門下生による共著の本。
地下官人や堂上家の部屋住みなどにも触れていてなかなか読み応えあるよ。

69: 2012/02/19(日) 22:01:35.53
二條家の諸大夫ともなれば北小路とか松波とかさすがに譜代でそれなりに
由緒ある家臣だなー。

70: 2012/02/21(火) 20:03:45.43
武家との婚姻関係で見る家格

将軍家-内親王・摂家・親王家
御三家・御三卿-摂家・親王家
国主大名-親王家・清華家・平堂上家
一般大名・旗本・大藩家老-平堂上家

71: 2012/02/27(月) 20:14:06.52
公家の生活は「家の格」によって出世できる終点の身分も決まっていた。
武家の方が自身の才覚によって身分上昇が可能なので、「世の中を変革しよう」
など、公家の側からは出なかったのだろうな。

72: 2012/02/28(火) 22:50:51.99
逃げる公家、媚びる公家―戦国時代の貧しい貴族たち―』柏書房(2011)

73: 2012/02/29(水) 09:39:49.72
信長とか秀吉は公家を武装させて参陣させてたからなあ。
もちろん実戦力ではなくて御伽衆的な感じだけど。
これを本気にして渡海しようとした近衛信尹みたいな摂家も出てくる始末。

74: 2012/03/01(木) 18:22:11.62
公家はペットみたいなもの。数が少ないのが生き残る道。

75: 2012/03/02(金) 18:01:17.87
公家が一番困窮したのは戦国時代でしょ?
でも江戸時代見ても100石に満たない公家がぞろぞろいたよな・・・
戦国時代は天皇も飢えて餅屋からの献上品を食ってたというし
京都にいた有力武家は何をしていたのかと小一時間問い詰めたい


77: 2012/03/02(金) 21:48:30.44
>>75
>京都にいた有力武家

これって室町将軍のことでしょ?室町将軍も金欠で援助どころでは無かった。
大体将軍が京に不在なことが多くてね。追い出されちゃって。

76: 2012/03/02(金) 20:59:42.79
別に扶養義務があるわけじゃないし。
正直どうでも良かったんじゃないの?
余裕がなかったのかも?

83: 2012/03/08(木) 13:42:47.72
そもそも江戸時代に公家って必要だったのか?
皆無でいいとは思わないが、大臣家未満は無嗣絶家でも問題ないでしょ。
大名の改易みたいに浪人が増えるわけでもない。

86: 2012/03/09(金) 08:32:18.91
>>83

あなたはレンホーさんですか?

94: 2012/04/01(日) 11:46:22.32
>>83氏の言ってるように、「なんで必要だったの?」っていうのは、
天皇家・公家っていうシステムの不思議さを改めて感じさせます。

95: 2012/04/01(日) 17:12:48.33
>>94
長く続きすぎて、誰もが「無くす」ことが怖くなってしまった。

96: 2012/04/02(月) 12:47:14.17
>>94
武家は権威付けに朝廷から官位貰わないといけないのに
天皇家、公卿を粛清とかする必要あるのか?
織田信長は生きていたら自分が天皇として即位しそうな感じだけど
明智光秀に殺されてるし。

99: 2012/04/02(月) 16:04:31.43
>>96
信長が天皇として即位しそうな感じってのの根拠は?
それ言ってる人見るとどうも素人っぽくて。
根拠を明示してくれればまだ話になるけど。

84: 2012/03/08(木) 20:42:55.41
朝廷の組織運営に最低限必要な人数を確保するために、幕府主導で新家を設けて公家の数を増やしたのだが>江戸時代

85: 2012/03/08(木) 20:53:43.77
>>84
中断していた儀式とかを中断させたままにするのならば、
新家を設ける必要がなかったけれどね。
もちろんそうさせないのが朝廷の要望と幕府の方針だったから、
公家がごちゃごちゃ増えたのだが。

88: 2012/03/11(日) 15:28:29.32
摂家の当主ですら、征夷大将軍ごときから偏諱を受けていたって、情けない
存在価値が希薄すぎ

89: 2012/03/11(日) 19:22:39.65
>>88
二條家のことかーーーーっ!!!

90: 2012/03/11(日) 20:32:12.92
室町時代は二条家以外の摂関家ももらってるよ

91: 2012/03/12(月) 11:03:50.17
あの時期は実質的に君主だもんな。
普通はあそこまで行けば簒奪しちゃう。
あるいは、名目君主の次の臣下最上位の地位を作ってそれになるか、
既存の臣下最上位の地位に就任しちゃう。
征夷大将軍は名目上は明確に摂関より上位に位置づけられてもいない、
不思議な地位。

92: 2012/03/17(土) 13:59:24.11
室町時代後半
スポンサーがいない → 即位するカネがない → 天皇在位が長い
感じいるものがある

93: 2012/03/24(土) 22:06:04.07
>>92
死ななければ100年でも在位していそうな雰囲気。
後柏原や後奈良、後土御門あたりが貧困天皇の極致。

94: 2012/04/01(日) 11:46:22.32
>>92
他の国なら、とっくに公家・天皇家なんて消滅してたんだろうね。

97: 2012/04/02(月) 13:37:52.55
今から見ると、皇室は日本史上存続するのが当たり前だったように見えるけど、
実際には、偶然が続いてここまで存続した、と見るのが正しいと思う。

特に、室町中期までは、皇室にもまだ
財政的基盤も政治的基盤も、それなりにあったわけだが、
戦国時代にそれが、ほぼなくなった。
その後江戸時代には、家康の貴種マニア的な性格もあり、
朝廷は箱庭的に生き残ったわけだが、あくまでも箱庭であって
財政的にも、政治的にも従来のものとは全く異なったものになっていた。

もし戦国時代があと数十年続いていたら、皇室が滅亡していてもおかしくなかった、
と自分は思うが。最後まで京都を離れなかったのが幸いした。
もし本当に生活できなくなって、地方に亡命したりしたら、きっと滅んでいたと思う。

98: 2012/04/02(月) 15:12:32.72
>>97
運がいいだけで生き延びられないよw

100: 2012/04/02(月) 16:09:05.90
>>97
皇室の権威を利用したのは紛れも無く戦国大名だろ?
大内や毛利がどれだけ献金したと思ってるんだ。

ただそれでも経済的には安定しなかったが信長、秀吉の登場で
天皇権威は復活しただけでなく、以前にもましてその存在意義が増した。

もちろんそれは信長、秀吉の栄光のお陰であることは間違いないが
戦国時代を終わらせたのはある意味この両名であって、
あたかも家康が皇室の存続に大きく寄与したというのは
あまりにも飛躍した話である。


102: 2012/04/02(月) 16:26:55.78
>>100
いやだから書き方が悪かったかも知れんが、
勿論家康だけじゃなくて、信長秀吉が現れずに、
あのまま足利将軍家の権威低下だけが続いて、あと数十年~100年程度
戦国時代が続いたら、やっぱり金欠で生活できず、
「どこかの勢力に取り込まれてしまう」ことになったのでは?
ってのが自分の想像。
あくまでも想像だから、それ以上議論はできないけどね。

とにかく、戦国時代の朝廷は、(一般的に思われていることに反して)
「存続の危機」の状態にあった、ってことは確かだと俺は思う。

103: 2012/04/02(月) 16:30:16.76
>>102
武士が全員悪党になった上に荘園の解体が進んだんじゃしょうがないね。
危機は危機だけどやっぱり官位を与えるということで生き残ってる。

101: 2012/04/02(月) 16:13:55.97
とは言え>>97氏の言うように、もし天皇が地方に亡命することがあったらそりゃ滅んでいた可能性は高い
ただ多くの公家が地方に疎開したのと決定的に違ったのは、玉座という地位を軽んじないという
天皇自らの天皇の歴史に対する敬意だ。つまり地方に亡命するなんていう仮定がありえない。

そもそも戦国時代にあって地方亡命なんてのはある勢力に取り込まれた時なわけで
それを他の大名が許すわけもない。つまり戦国のような時代だからこそ京都に固定されるし
大名勢力もそれを望むわけだ。そこら辺の仮定を公家レベルや京都内での里内裏レベルと同じに考えてるのはおかしい。

104: 2012/04/02(月) 16:33:33.89
その「あと100年間戦国時代が続いたら~」っていう想定自体がナンセンスだからな。
戦国時代があと100年続くってのはどういう状態か想像もつかないし、
逆に言えば戦国時代が終了するその100年後というのはどういう終了の仕方なのか。

つまり設定自体に(歴史を考える上では)無理があるので、その設定に基づいて天皇がどうだというのは無理だし無意味。
なのでそれをもって「存在の危機」にあったとも判断はできない。

むしろ戦国時代でさえもその存在が失われなかったことを考えれば
「存続の危機」は戦国よりも道鏡の登場や、足利義満のような公家社会も取り込んだ独裁者の登場時の方がよっぽど切迫していたと思う。

110: 2012/04/04(水) 11:51:15.30
>>104
天皇家の持つ広大な荘園が武家に横領されつくしたから、天皇に価値がなくなった。

112: 2012/04/04(水) 16:30:06.04
>>110
天皇は荘園を所有してたから価値があったわけじゃなかろうに。
てか日本語で頼むわ。

113: 2012/04/05(木) 00:52:52.90
>>104
戦国時代が続いてたら天皇制が滅んだか?ってのは議論あり得ると思うが、
「戦国時代があと100年続くってのはどういう状態か想像もつかない」ってのは、すまんがよくわからん。
想像くらいは、容易につくだろ。
信長秀吉以前から、戦国の覇者はいて、しかしそいつらは強い権力を持ちながら
維持できずに滅び去っていっていたわけで。そういう状態が続いて、
100年後になってようやく秀吉みたいな傑物が現れて統一する、なんてことくらい、想像するのは容易。

むしろ、歴史に「もし」なんてそもそもありえんだろ、って言うのならまだ話はわかるが、
それは全く別の問題な。

115: 2012/04/05(木) 12:46:49.47
>>113
現実に起こってないことを想像するのは容易とはなw
そもそも覇者がひたすら滅び去って行くことが繰り返される状態がただ延長されるだけと考えてるようだが
それは想像以下のものだろ。

ここは日本史板なんだから想像するにしても学問としての科学性を多少なりとも根拠とし給え。
それを踏まえた上で想像するのは困難だ、というわけだ。
戦国の覇者が攻防を繰り返すことが200年続くという状況は日本史の歴史性を考えた時にそれはどういう状況か
もう少しその想像とやらではなくて丁寧に説明してくれないかな?

118: 2012/04/06(金) 03:22:30.92
>>115
だからさ、あなたの言っているのは、戦国時代が100年続いたらどうこう言う話じゃなくて、
「そもそも現実に起こっていないIFは想像しても意味ない」っていうだけだろ?
もしそうじゃない、って言うのなら、
何でもいいから、何か現実に起こっていない事柄について、
日本史の歴史性を考えた時にそれはどういう状況か、自分で納得の行くくらい寧に説明してくれないかな?


つまりね、あなたはただ単に「歴史にIFは無意味」って言ってるだけなんだから、

105: 2012/04/03(火) 22:54:40.85
権威ってなあ、なんなのでしょうなあ……(´・ω・`)

天皇というシステムが残った理由の一つが「長さ」だとしたら、「漢」はなじぇに
無くなってしもたのだろうかなー、とか。献帝まで約400年でしょ?

支那の場合は、禅譲っていうシステムが構築されたせいかしら?

108: 2012/04/04(水) 10:04:43.60
>>105
儒教が根付くのが遅かったからじゃないか?

109: 2012/04/04(水) 10:49:41.57
>>108
「孟子」の易姓革命概念が嫌われて、
「孟子」を載せた船は沈むという俗説があったぐらいだからな。

106: 2012/04/03(火) 23:49:40.89
世界史的に見れば、永続しないほうがずっと多いからな。
普通は続かないし、変わったときにその理由を考えるほうが普通だったから。
権威は跡付けだよ。

107: 2012/04/04(水) 09:28:20.30
天壌無窮の神勅がわが国体を保証してるんだよ。

111: 2012/04/04(水) 12:24:30.99
隣の新羅はなんで滅んだ?

114: 2012/04/05(木) 01:45:23.06
根拠地から京都までの土地を連続して支配下に治めて安定していられた勢力が織田家が現れるまで無かったようなものだもんね。
細川とか六角とか三好とかは一応そういえるかも知れないけど、圧倒的な力で維持できるまでには及ばなかった。
大内とか根拠である山口に帰らなくちゃいけなかったし。

116: 2012/04/05(木) 20:45:32.04
文化と教養が戦国時代の天皇や公家の存在意義だったのでは?
大名が公家文化を消化するか、新しい文化を創造できたら
大名は天皇達のスポンサーをする気は失せるだろう。

117: 2012/04/05(木) 21:09:51.18
>>116
もし室町幕府が鎌倉にあったら、天皇家は立ち枯れていたかもしれない。
武士が京都ではなく鎌倉を向くから。

121: 2012/04/07(土) 02:24:34.70
>>117
どっかの本で読んだが、鎌倉育ちの尊氏が京都に幕府を置くことを考えたのは
足利氏の権威や勢力の弱さのためらしい。
尊氏が戦の大天才だったり、北条氏の財力をそっくりそのまま継承出来れば
足利氏の権威や権力も上がって鎌倉幕府2ndもありだったんだろうが。
結局東国が西国と同等な文化を持つことは無かったな。
江戸時代も首都は江戸でも他は圧倒的に
西>>>東 だし。

124: 2012/04/07(土) 15:14:08.77
>>121
1450年くらいから上洛を志向する武将が出てくるけど、
天皇と将軍のどっちがより強く武将の上洛意欲をそそったのだろうね。
落ちぶれた天皇家にとって、将軍と同じ場所に居たことがプラスに
働いたことは間違いないと思っている。

144: 2012/04/14(土) 10:54:02.06
>>116
中国の周が勢力を失ってしばらく経ってから権威も失ったのは、
他の大国が段々と周が独占していた文化財を作る技術を獲得していったからでは?

122: 2012/04/07(土) 02:34:52.33
武家政権時代の朝廷公家は、覇道の世界によらない、学問、文藝の世界に身を置くことで保身を全うしてきたわけだが、
関ヶ原の戦いの丹後田辺城攻城戦のさい、不意に朝廷は、自らの意思を表明する
「幽斎を喪うのは、朝家の嘆きである」

なぜ、この時だけ、朝廷が、いにしえの国家権力のような毅然とした姿勢をとったのかね

126: 2012/04/07(土) 21:09:57.46
>>122
八条宮智仁親王の個人的な拘泥が大きかったのだろうか。
最終的な決定者たる後陽成天皇が秀吉政権の下で(文化的価値も含む)権威を上昇させていたことも
要因のひとつとも思うが。

125: 2012/04/07(土) 20:53:44.67
それは足利氏にも言える。
独自の権威を持つのに失敗したから
天皇の庇護者になろうとした。
もし、足利氏がかつての頼朝のような権威と北条氏のような権力があれば、
鎌倉を拠点に三河から陸奥までを支配したろう。

127: 2012/04/08(日) 19:30:29.24
従二位兵部卿を得た大内っていくら献金したんだろう?
元々の大内の家格ってどうせ従4位下あたりでしょ?

129: 2012/04/08(日) 22:09:23.66
>>127
後奈良天皇の即位費用に2140貫、その他禁裏修理に100貫など。
後の正親町天皇の即位費用に毛利元就が2000貫献金している。
西国は太っ腹だね。

130: 2012/04/08(日) 22:23:51.58
>>129
いやそれ以外にもしてるんだよ確か1000貫くらい。
正確な数字と、名目は失念してしまったが。
文献あさってみるわ。

128: 2012/04/08(日) 19:36:06.07
文献にあったはずなんだがどこに行ったかな?

131: 2012/04/08(日) 23:34:24.64
貿易は儲かるってことだね。しかし従二位で兵部卿にしか任じられないとは、朝廷も底意地が悪い。
中納言もしくは権大納言でも充分お釣りがくる。

132: 2012/04/09(月) 01:06:28.50
逆だろ。金で官位は買えないということを示してるわけだ。
ただ買えるかもしれないということも示しているわけでもある。

133: 2012/04/09(月) 09:02:39.13
従二位非参議なんて珍しくもないんだが

134: 2012/04/10(火) 08:55:43.45
このころは官職に対する位階の相場が落ちてるからね。
官位相当よりかなり高い位階の場合が多い。

135: 2012/04/10(火) 15:42:06.41
平公家の癖に1000石前後と清華よりも貰っている家が結構あるけどどういった由緒なんだろ?

138: 2012/04/12(木) 21:24:10.15
>>135
江戸時代だと、徳川家(特に家康あたり)との親密さが影響している。


136: 2012/04/10(火) 15:47:56.55
例を出すと花山院を本家とする系統では
花山院家(侯爵)715石
花山分家の難波家(子爵)300石
更に難波の分家の飛鳥井家(伯爵)が928石

137: 2012/04/11(水) 10:28:54.42
飛鳥井は難波の分家だが難波が絶家して飛鳥井の系統から再興したため
勅定で飛鳥井が本家、難波が分家と決められた

ちなみに難波飛鳥井は花山院の分家でなくて「同祖」という位置づけだったはず

139: 2012/04/13(金) 08:48:25.03
日野流の旧家が多めなのは、やっぱり実務を握っていたからか?
吉田家なんかは、神道のたまものなのかねえ。

140: 2012/04/13(金) 14:36:15.22
日野の所領が多いのは足利家との関係が深かったからだと思ってた

141: 2012/04/13(金) 20:46:40.33
日野は戦国時代に一回断絶しているからな
その後に養子に入った日野輝資は禁中並公家諸法度の立案に参画したと言われている。

142: 2012/04/13(金) 20:48:49.25
おお。全然知らなかった。
なかなか面白い経歴の公卿だね。

143: 2012/04/14(土) 04:15:03.47
やあ、なんか、すごく基本的な質問させてください。

戦国期以後の「公家/公卿」の地位ってのは、何をもって尊いとされたんでしょうか。
家柄ということですか?

146: 2012/04/14(土) 11:07:43.58
>>143
「貴種」というのは何時の時代でも尊いものよ。

武家が「貧乏公家め」と腹の中で小馬鹿にしていても
結局かなわないのがあなたの指摘する家柄とそれに基づく歴史伝統文化、
そして武家政権の裏付けとなっている天皇の直臣という権威的位置なんだろう。

幕府や大名にとって自分たちを権威付けるためにはどうしても必要な存在だったわな。

148: 2012/04/14(土) 15:11:13.93
足利ってどうして日野みたいな平公家から代々嫁を貰っていたんだろう?
どうせなら摂家や宮家から迎えれば良いのに何故か勢力や家格の低下した応仁以降に正妻を
摂家から迎えているし訳わからないよね。
逆に考えると将軍権力が落ちたからこそ、箔をつけるために摂家から迎えたという事もできるが・・・・

149: 2012/04/14(土) 18:23:25.49
家格が低下というのはどうなんだろうね。
得宗も足利将軍家も、官位でかざる必要が少なくなったから
昇進に拘らなくなったんだろう、という論もあるようなし、むしろ
そっちの方が説得力がある気がするが。
実際、室町後期であれば、摂家の権威なんて将軍家よりはる
かに下なわけで、箔付になどなりようもないし。

150: 2012/04/14(土) 23:49:13.69
>>149
応仁の乱以降、足利将軍が飾り物になって将軍の官位も在任期間が短く、昇進の機会が少ないことを考慮しても
大臣どころか三位にもならない事が多々あったけど?
執事に過ぎない北条得宗が官位に頼らなかったというのとは違うと思うが。

151: 2012/04/15(日) 00:15:34.31
>>150
得宗も、早い時期には四位まで上がっていたのが、後期になると五位という
例が多いという。で、庶家の方が四位で官位は高かったりする場合もあると
いうが、それをもって「北条庶家の方が得宗より家格が上だった」とするの
はおかしいだろ?
足利将軍家にしても、昇進の儀式にかける金がおしいからというのが理由
であり、「将軍家」という官位を超越した家格が確立した後では敢えて箔付
の必要がなかったというのが実態でしょう?
実際に、摂家以下、官位では将軍よりはるかに高い者も含めた公家も、
将軍に伺候していたわけだし。

152: 2012/04/15(日) 02:48:52.41
>実際に、摂家以下、官位では将軍よりはるかに高い者も含めた公家も、将軍に伺候していたわけだし。

は認めるが足利将軍の家格低下?は得宗のそれと比較できるものと同類と言えるだけの問題かな?
将軍家の勢力低下と摂家の低下と同列に談じる事が出来るか否かというとは少し違うと思う。
少し違うけど徳川将軍と摂家は分相応の婚姻と言うのと比べて足利と日野が分相応というのは違う気がする。
教養深い人だと思ったので問いかけを含めてレスさせてもらった。

153: 2012/04/15(日) 05:47:03.44
単純に日野家から嫁を迎えた最初の将軍は義満だから、それが吉例扱いされたんじゃないか?
義詮が渋川・紀氏の嫁を貰っているのに比べたら価格は上がっているし。

154: 2012/04/15(日) 17:02:49.74
下橋敬長さんの「幕末の宮廷」はかなり面白いね。
知らない人は是非読んで欲しい。文調もどこか軽妙な感じで飽きない。

155: 2012/04/17(火) 23:46:35.96
義満の例にならってということも大きいんだろうけど、義持以降の場合には
日野家からの「母(准母含め)」が、子の嫁として自分の縁者を推したという
事が大きいんではないでしょうか?

156: 2012/04/26(木) 01:28:38.04
秀吉に関白を売った割には近衛は潤わなかったなw
上級旗本並みの石高しか貰ってないし多少の金貰った以外、摂関家に何かメリットあったの?

161: 2012/04/27(金) 18:24:27.31
>>156
摂関家の収入が表石高だけだと思ってるのか?

157: 2012/04/26(木) 08:49:35.41
近衛前久は天皇の外祖父になれたけどな。
摂家出身の母を持つ天皇は久しぶりだった。

158: 2012/04/26(木) 18:42:42.15
まあでも近衛家に限って言えば領地で大もうけして実高1万石って言われてたから。
軍役義務(城普請・参勤交代)の無い公家だからそのまま余計な出費ないし。

159: 2012/04/27(金) 08:44:52.14
しかも大名に比べて家臣も少なく、人件費が浮く分更に。

160: 2012/04/27(金) 18:13:38.64
さらに縁戚の将軍家・御三家・国持大大名からのお手伝い金などもあり・・・。

162: 2012/04/28(土) 10:53:04.57
家礼の家は、やっぱり摂家に付け届けとかするの?
官位昇進の口添えのお礼とかで。

193: 2012/05/10(木) 21:00:53.81
>>162
官位昇進の推薦権は将軍とバッカクだから、お礼はバッカクに払うんやろ

163: 2012/04/28(土) 12:43:21.14
公家から将軍の家来に転身を図った鷹司信平

164: 2012/04/28(土) 17:11:49.99
渋川氏って、娘を義詮室にしただけじゃなく、直義室にもしていて、
更に高師直の娘を嫁にもらってるんだね。

そんな渋川人脈もありながらも観応の擾乱がおきてるんだよな。
足利・渋川の二重の血縁関係があっても、内輪揉めを防げないってよっぽどだよな。

165: 2012/04/29(日) 16:04:04.54
摂家から土着大名になった一条教房が、
ある意味で最強だ

166: 2012/04/29(日) 23:43:35.15
うん。奉公衆が瓦解した室町末期の将軍と一条教房を比べれば
教房の方がたくましい。

167: 2012/04/30(月) 12:12:55.55
そのまま京都にいれば関白にもなれたのにね

168: 2012/04/30(月) 17:45:11.51
京都にいたころに関白になってるだろw

169: 2012/04/30(月) 23:46:38.28
子孫も関白になっているね。

170: 2012/05/01(火) 00:11:43.00
親父が奈良に来たら土佐に移ったわけだけど、親子仲が悪かったのかな?

171: 2012/05/02(水) 08:25:56.76
その当時はどうだろ?
後に土佐に移ってからはけっこう兼良に援助してるみたいだけど。

教房はさきの関白だから貴族中の貴族だけど、土佐二代目三代目・・・になってくると
在国だからやはり気性も武将のそれになって甲冑を着て出陣もあったんだろうな。

172: 2012/05/02(水) 09:52:42.26
土佐日記なんてのがあったから土佐へ下向してみようかなんて考えたんだろうね。
そうじゃなかったら流石に南海の果てまで行こうとは思わんかったんジャマイカ。

173: 2012/05/02(水) 15:40:09.73
土佐一条と北畠の官位は羽林並ってところか?
一条教房の系統が土佐と京都に別れた感じじゃね?

174: 2012/05/02(水) 20:49:35.98
実際に不知行になっていないところが土佐にしかなかったとか

175: 2012/05/03(木) 09:23:21.61
鎌倉四代将軍の兄は、九条家を継いだ者、二条家の初代、一条家の初代。
一門で繁栄しそうなものだが、そうでもないところがいいね。

176: 2012/05/04(金) 10:45:50.22
義昭を追いやったあとの織田本陣には公家も数十人の家人を引き連れて鎧甲冑を
身に着けて参陣してたらしいね。室町将軍家も将軍親征には公家を参陣させていたから
それを踏襲したんだろう。もちろん実戦隊ではなくて御伽衆みたいなものだろうけど。

177: 2012/05/04(金) 18:49:21.72
近衛前久も武田攻めに従軍してるよね

178: 2012/05/04(金) 19:05:31.87
前久と信尹はマジで武家になろうとしてそうな・・・。

179: 2012/05/05(土) 13:14:09.74
大坂の陣では持明院基久という公家が出陣・籠城して戦死してるね

180: 2012/05/06(日) 14:43:07.87
公家が武家のまねごとをしても家臣団の構成からして無理だし、
技術もノウハウもなにもないの戦闘行為なんかできやしない。

181: 2012/05/06(日) 19:34:19.01
>>180
一体、いつの時代の公家観だよ?

公家は身辺警護や所領の運営維持のために最低限の武力は中世を通じて保持していたし、
反対に武家だって常時安定した武力を行使できるだけの兵力を揃えられるようになったのは兵農分離後。

だから、河内の日根荘で守護の軍隊が九条家の青侍に率いられた荘民に返り討ちに遭ってしまうという事態が起こり得るのだが。

183: 2012/05/06(日) 19:57:02.04
>>181
まあそれもそうだけど、土地に根ざしてる武士の家臣団と公家の組織じゃあ全然質が違うだろうよ
言いたいことわ分かるし、ある部分正しいのだろうけどたった1つの事件を取り出してきてそれを
自分の説の補強に使われてもね。単なる1つの事象にしかすぎんよ。

188: 2012/05/07(月) 23:18:08.36
>>183
その論理だと、守護大名だの守護代上がりの大名なんてのは
存在し得ないな。

182: 2012/05/06(日) 19:35:01.50
河内×→和泉○

184: 2012/05/07(月) 09:02:55.64
鷹司信平だったか、江戸時代に公家から武家になったのもいたな

185: 2012/05/07(月) 09:22:08.48
忠幸王は尾張の姫に婿入りして尾張家一門になったあとに再び京都に戻って
公家に復して広幡家を興したな。

186: 2012/05/07(月) 19:45:58.31
参陣公家って加増を期待して参陣したんだろうけど、公家の所領は多くて2~3千石くらいだから手柄なんかあげなかったのかな
それとも信長も、秀吉も、家康も公家には渋かったのかな



187: 2012/05/07(月) 20:05:51.45
下級公家の食事は庶民と
同じ様な内容だったの?
玄米とか雑穀の雑炊とか?

190: 2012/05/10(木) 13:55:34.19
>>187
徳川家光の時代に出された慶安の御触書で農民は酒や茶を買って飲むな、
雑穀を食べるようにし米を食べないことなどいう定書を公布したが
裏を返せば白米を食べ、酒や茶を買って飲む農民が結構いたということだろう

191: 2012/05/10(木) 16:03:44.57
その慶安の御触書が偽書であるという昨今定説化している論説の根拠の一つが
>>190のような時代にそぐわない内容に触れている点というのがある。

192: 2012/05/10(木) 18:12:05.30
>>191
慶安に出されたものではないらしい、という説があるだけで
江戸時代にそういう御触書があったことは事実

194: 2012/05/10(木) 22:15:38.74
>>192
まず徳川家光の時代に、というところに対しての偽書というレスだったわけで
江戸時代(という長い間を通じて)農村法令が出されたことは当たり前のこと。

あなたがいう「慶安のお触書」に相当する法令が「江戸時代」に出されたというのは
「いつ」「どこで」というのを年頭に置いているのかな?
類似法令ならなんぼでもあるということ前提で、そういうアバウトな話ではなくて

195: 2012/05/11(金) 09:28:59.74
>>194
191が「徳川家光の時代に出されたのでは時代にそぐわない(別の時代なら適合する)」
という意味のレスなら、いつの時代なら適合すんの?
むしろ、そっちが答えるべきでは?

194: 2012/05/10(木) 22:15:38.74
>>191の時代にそぐわないというレスを踏まえて17世紀前半に存在する法令を提示してくれるかい?

189: 2012/05/10(木) 12:52:27.62
格の上下と貧富は直接には関係しないし、
庶民以下の生活もいれば、大名並みの生活もあるでしょ。
利権化した家業持ってるとか、宗教がらみはかなり裕福。

198: 2012/05/24(木) 07:46:22.19
江戸時代における一般の公家のイメージは鉄漿・白塗り・猫なで声・陰湿・・・で
統一されてしまったな、時代劇のせいで。おまけに大河なんぞも同様だし。
質実剛健な武士に対しての悪のイメージか。

199: 2012/05/24(木) 08:51:32.24
江戸時代の公家は、基本的になにもしないひとたちだからね。
社会に対してなんの貢献もしてない。

200: 2012/05/24(木) 18:22:45.01
無役の武士たちも同様。