1: 2018/11/26(月) 10:48:09.04
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県八代、球磨郡、人吉、長崎県佐世保、島原、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!

邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です! 

引用元: ・【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弍

3: 2018/11/26(月) 10:52:04.48
0003 日本@名無史さん 2018/11/12 21:15:15
張氏の解説を踏まえて進めていきたい。
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を

間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。

では、何が正しいのか?問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の「起点」は「末蘆国」である。しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。

つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。

「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、

それ以外の読み方はできないそうだ。まだ途中だが、ここまでくると、今までの学者の解読が
いかにいい加減かが分かってしまう・・・。
距離、方位等を考えると比定地は現在の「潜木」となる。

ここでひとつ矛盾が生じた。実は「奴国」には「至」が使われていることだ。つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になる

はずだが、張氏は違うとはっきり言っている。
「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、

「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけないそうだ。

つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」へは行っていない、当然そこを「起点」にしてはいけない

ということだ!・・・続く!
参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」

4: 2018/11/26(月) 10:53:47.61
ここからはよく知られている文面になる。
『南して投馬国にいたるに水行二十日』に関して、ここでは距離が示されていないため、「邪馬台国」の比定の後になる。

さてさて問題の『水行十日、陸行一月』だが・日本では、「まずは水行を十日、その後で陸行を一月」と読んでいるが、張氏は「これも間違い」と指摘している。

もしそのように読むならば、間に「又」のような字が入らなければいけないし、水行十日の後、どこに着くのか、

陸行一月はどこから始まるのかが書かれていなければならないと言っている。それがなければ、上記のようには読めないそうだ。

従って、正しい読み方は「水行するならば十日、陸行するならば一月」・・・「ならば」が正解だそうだ。当時の船は命がけなほど危険な乗り物だったため、

「末蘆国(佐世保)」についた後、好きな方を選べるように両方記載したと思われる。

現代でも、「電車なら〇〇駅から〇分、車なら〇〇インターから〇分」と記載するようなものだろう。この場合の「起点」は文献上、「末蘆国」以外に無いのは

上記の説明の通りだが、さらに追加すると、「水行」したり「陸行」したりできる地域でなければ「末蘆国」に

なり得ないのだから、「直線読み」や「畿内説」で当てはまるかどうか、考えてもらいたい。ここまでで、素直に理解された方は、この本の信憑性を理解してもらえると思う。

張氏は、1・語学的に絶対に無理が無いこと。

2・原文を絶対に修正しないこと。

3・国々の位置が陸上にあること。・・・という前提を絶対に守らなければいけないと言っている。これを見ただけで、幼い時から感じていた矛盾を払拭された感じがする。・・・続く!

参照 張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」

5: 2018/11/26(月) 10:55:08.38
『南して邪馬台国にいたり、女王の都するところ、水行すれば十日、陸行すれば一月』・・・
ここで問題になるのは、肝心な「邪馬台国」までの距離が記されていないことだろう。

しかし「魏志倭人伝」には『都より女王国までは、万二千余里』・・・つまり1万2千里なのだから、引き算すれば残りの距離が出てくる。

翻訳と計算が正しくできていれば・・・の話だが・・・!「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・

残りは二千里ということになる。つまり、水行十日=二千里になる。「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、

『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で無ければならない。

これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。

そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」

と言っている。「えーーー」っと言われる人も多いだろう。「畿内説」は問題外で、「北九州説」も完全に否定されてしまったからだ。

しかし、まだ比定されていない「投馬国」にもたどり着ける地域でなければ「魏志倭人伝」と矛盾してしまうため、他の地域では有り得ないということだ。・・・続く!

参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」

6: 2018/11/26(月) 10:56:20.77
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国

7: 2018/11/26(月) 11:01:22.10
「諸国を検察するのにたった一人の司令官を置くのは、どう考えても辻つまが合わない。”率”は”司令官”であるから”小率”は絶対になく”大”とわざわざ書かなくても当然”大”である。
したがって”一大”が固有名詞でない限り、ここには”一”の”大”も出てくるはずがなく、したがって一大というのは、固有名詞であり、一大率は一大国の司令官である。つまり、一大国の司令官を使って諸国を統治していたのである。」
誤読だらけの邪馬台国

8: 2018/11/26(月) 11:03:36.43
「女王国以南の投馬国は、天領の邪馬台国と全く同じで、邪馬台国からの司令官が統治していたと思われる。一大国の司令官が統治したのは、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国が主だと思われる。
そして、司令官による統治は、つまり、軍政だということである。だから諸国は恐れたり、畏怖したりしたのである。
しかし、司令官による統治は、軍政だということであるから、小国に対してはできたが、伊都国のように“世有王”という半独立国にはできない。
したがって、いつも伊都国に対する統治の仕方は、国の中に刺史に似たような長官を置いたのである。つまり、一大国の司令官で統治するような軍政を行わずに、刺史のような長官で、伊都国王に一目おきながら伊都国を統治したのである。」
誤読だらけの邪馬台国

10: 2018/11/26(月) 11:22:26.52
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

21: 2018/11/26(月) 18:07:27.26
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

56: 2018/11/27(火) 18:24:48.85
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

67: 2018/11/28(水) 09:41:06.64
新井白石の邪馬台国論
>白石は、倭人伝に登場する国々の地名比定を行って、邪馬台国(大和国)への道筋を始めて明らかにした。
>しかし行程の里数や所要日数には触れず、もっぱら音韻の類似によって地名を比定している。

>そして、日本書紀の卑弥呼神功皇后説をひとまず肯定して、大和説を論じたものの、
>倭人伝の記事が、神功皇后の記事や日本の地理と必ずしも一致しないことに気付き、やがて沈黙し、九州説の可能性に触れた経過もある。
>その沈黙と混迷は、その後に始まる邪馬台国論争を予感させた。

68: 2018/11/28(水) 09:44:28.75
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

69: 2018/11/28(水) 09:46:38.64
 新井白石の地名比定
対馬(たいま・たま)国→→ 対馬(つしま)国(長崎県対馬)
一支(いちし・いちき)国→→ 壱岐(いき)国(長崎県壱岐)
末盧(まつろ・まつら)国→→ 肥前国松浦郡(佐賀県唐津市)

伊都(いと・いた・うた)国→→ 筑前国怡土(いと)郡(福岡県糸島地方)
奴(ぬ・な)国→→ 筑前国那珂郡(福岡市中央区)
不弥(ふみ・ほむ)国→→ 筑前国粕屋郡宇美(うみ)(福岡県粕屋郡宇美町)

投馬(とうま・つま)国→→ 備後国鞆(とも)の浦(広島県福山市)、または摂津国須磨の浦(兵庫県神戸市)
邪馬台(やまたい・やまと)国→→ 大和国(奈良県)
狗奴(くぬ・こな)国→→ 肥後国球磨郡(熊本県人吉市・球磨郡)

70: 2018/11/28(水) 11:54:56.94
ここで最大の問題は伊都国である。
伊都国として、ほとんどの論者が疑うことのない筑前国怡土郡付近は・・・、

大化の改新以前は「伊覩縣(いとのあがた)」が置かれていた。
日本書紀によると、その祖の名は、「高麗の意呂山(おろのやま)に天下った天日鉾命の後裔」の五十迹手(いとて)で、
仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順し、これにちなんで、この地を伊蘇と呼ぶようになったとされる。

その後、伊蘇が訛って伊覩の縣になったのだが、この「覩」は、都の意味ではない。
「見る・よく見る・よく見分ける・・・」、などの意味だ。
「ホントに三世紀の伊都国だったのか、よく見分けるように・・」との、日本書紀の親心だったのではないか??

71: 2018/11/28(水) 11:59:36.43
>>70
>ここで最大の問題は伊都国である。

末盧(まつろ・まつら)国もだよ。  @阿波

72: 2018/11/28(水) 12:06:55.34
>>71
福津・宗像ではないから安心して出ていって良いよ♪

73: 2018/11/28(水) 12:09:45.45
>>72
>福津・宗像ではないから安心して出ていって良いよ♪

それでは安心して出ていけないよ♪  @阿波

74: 2018/11/28(水) 12:35:51.88
それで阿波の漂流民に聞きたいのだが、
壱岐から福津・宗像は、どっちの方角なのかねえ。南か??

75: 2018/11/28(水) 12:49:03.79
>>74

東南。  @阿波

76: 2018/11/28(水) 13:00:25.59
そうか、壱岐から福津は東南か。
良し、勉強してみよう。

77: 2018/11/28(水) 13:10:59.98
>>76
よく勉強するように!  @阿波

78: 2018/11/28(水) 20:07:27.60
壱岐から東南に数百里行くと、なるほど立派な津が見えてくるじゃないか
砂浜が続いてて、松林もあって、まさに白砂清松の見事な津だ。
これが阿波の云う福津かな、、、

80: 2018/11/28(水) 20:09:49.21
>>78
>壱岐から東南に数百里行くと・・・

千里だよ。  @阿波

79: 2018/11/28(水) 20:09:26.82
日本軍快勝 日本軍敗北の歴史の方がいいんじゃない?進まない歴史時計より。

81: 2018/11/28(水) 20:22:15.52
およよ、
砂浜のはずれに、ちょっとした入り江みたいのがあるな。
潟かなんかのようだ。船も止められそうだし、、、

85: 2018/11/28(水) 22:38:42.87
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をしている。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。

いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。

86: 2018/11/28(水) 22:39:29.54
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。

倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

「晋書」第97巻  『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?

87: 2018/11/28(水) 23:26:08.55
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

91: 2018/11/29(木) 20:52:34.32
真の伊都国:
ほぼすべての論者は、300年前の新井白石の地名比定を100%信用し、
伊都国は、筑前国怡土郡付近で間違いないとして、疑うことがない。
NHKの邪馬台国番組ですらそうである。しかし最大の問題は、この怡土郡「伊都国説」の是非なのである。

日本書紀によると、怡土の地の祖であった五十途手は、仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したので、
この時から、この地を「伊蘇」と呼ぶようになったという。
その後、この伊蘇が訛って「伊覩」になり、大化の改新以前はここに「伊覩縣(いとのあがた)」が置かれていた。

しかし、この伊覩の覩(と)は、都(みやこ)とは関係がなくて、
一般的な「見る・よく見る・よく見分ける・・・」、などの意味である。
ましてや「三世紀の伊都国」に何らかの由縁を有するものか、大いに疑問なのである。

92: 2018/11/29(木) 21:40:03.75
ま、新井白石以来の怡土郡→伊都国説には、
いくらか音が似ているかもね~~、以上の根拠はないってことだ。300年間、全く進歩ナシ・・・

95: 2018/11/30(金) 07:48:48.79
結論出せないから言いたい放題になってるけど
畿内説が一番説得力ある

96: 2018/11/30(金) 08:03:24.19
畿内説も、大和説も、安物説も、古びた説も、腹ハラ説も、
みーんな新井白石のちょうちん持ちだったってことよ、過去三百年間まるきり進歩ナシ・・・